第九十章「木霊の手紙2」
職人の森は光の谷の西側に広がる、素材の宝庫だった。木工職人や染色師たちが材料を求めて訪れる神秘的な場所で、年季の入った木々が静かに佇む聖域だった。
エマは森に足を踏み入れた。初夏の森は明るい緑に満ち、木漏れ日が地面に斑模様を描いている。いつもなら心が安らぐ光景だが、今日は奇妙な緊張感が彼女を包んでいた。
「もしかして、本当に三日前の自分に会えるのかな……」
森の奥へと進むにつれ、木々の間から漂う光が変わっていくのを感じた。まるで時間の流れが緩やかになったかのように、周囲の空気が重くなる。
そして林道の先、小さな開けた場所で、エマは足を止めた。そこには若い木の精霊が立っていた。人の形をしているが、肌は淡い緑色で、髪の代わりに小さな葉が風に揺れている。目は深い森の色をしていて、そこには太古からの知恵が宿っているようだった。
「待っていた」
精霊の声は風のささやきのようでありながら、はっきりとエマの耳に届いた。
「あなたが、手紙の差出人? でも、三日前の私……という意味がわかりません」
木の精霊は静かに微笑んだ。
「時間は川のように一方向に流れているわけではない。時に渦を巻き、時に分岐する。あなたは三日後、また同じようにここに立ち、今度は手紙を書く側になる」
エマは眉をひそめた。理解しがたい言葉だったが、心のどこかでその意味を感じることができた。
「なぜ私を呼んだの?」
「あなたの心の中には、言葉にならない想いがある。それを形にしてほしい」
エマは自分の心の奥を探るように、胸に手を当てた。言葉にならない想い??それは確かに彼女の中に眠っていた。前世から引きずる何か、あるいは今世で感じている何か、自分でも説明できない感覚。
「どうやって形にすればいいの?」
「あなたの手と心が答えを知っている」
木の精霊はそう言うと、手を伸ばした。その手のひらには小さな種が置かれていた。
「これは何の種?」
「言葉を超えた種だ。これを育てながら創りなさい」
エマは種を受け取り、不思議な温かさを感じた。その瞬間、精霊の姿は薄れ、代わりに一陣の風が森を駆け抜けた。残されたエマは、手のひらの小さな種を見つめながら、何を作るべきなのか思いを巡らせた。
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工房に戻ったエマは、窓辺に精霊から受け取った種を植木鉢に植えた。何が育つのかわからないが、何か特別なものであることは感じられた。
そして、「言葉にならない想いを形に」という課題に取り組むことにした。
「言葉にならないものを、どうやって形にするの?」
エマは前世での制作を思い返した。当時の自分は常に言葉で説明できるものを作っていた。クライアントへのプレゼンテーション、企画書、脚本??すべて言葉で明確に伝えることが求められていた。
しかし、光の谷での創作は違う。素材と対話し、時に自分でも予想しなかったものが生まれることがある。そこには言葉を超えた何かがあった。
「言葉を超えた織物……」
エマは素材選びから始めることにした。羊飼いの丘で取れた最高級の羊毛、月詠みの花の蜜で染めた糸、そして森の木々から集めた柔らかな葉。これらを組み合わせれば、特別な何かが生まれるかもしれない。
作業を始めると、エマはいつものように織機に向かいながらも、今回は頭で考えるのではなく、心で感じることに集中した。何を作るかという明確な計画はなく、ただ手が導くままに糸を選び、織り進めていった。
一日目が終わる頃、窓辺の植木鉢から小さな芽が出ているのに気がついた。たった一日でこんなに育つものなのだろうか。エマは不思議に思いながらも、これも試練の一部なのだろうと受け入れた。




