第九章 技の継承
陽射しが強くなり始めた五月の午後、エマの工房に一人の来客があった。
「あの、ヴァンローズさん……」
声の主は、十四歳ほどの少女だった。茶色の三つ編みを揺らし、緊張した面持ちで立っている。
「リリーちゃん? 見習い工房の」
「はい! あの、お願いがあって……」
リリーは、小さな布袋を差し出した。開いてみると、不器用ながらも丁寧に織られた布切れが入っている。
「私、春の大市でヴァンローズさんの作品を見て、すごく感動して……。私にも、誰かの心を温められる作品を作りたいんです!」
エマは、リリーの真剣な眼差しに、かつての自分の姿を重ねていた。
「でも、私の織物は失敗ばかりで……。どうか、教えていただけませんか?」
エマはしばらく黙って、リリーの作品を手に取った。確かに技術は未熟だ。しかし、一針一針に込められた想いは、確かに伝わってくる。
「リリーちゃん、あなたはもう、大切なことを知っているわ」
「え?」
「作品に魂を込めることを」
エマは、裏庭へとリリーを案内した。月詠みの花が、午後の陽射しを受けて静かに輝いている。
「ねえ、この花が見える?」
「はい、とても美しい紫色の……」
「この花は、職人の心に応える不思議な花なの。あなたにも、その輝きが見えるということは」
リリーの目が、大きく見開かれた。
「まずは、この子たちとお話してみましょう」
それから毎日、放課後になるとリリーはエマの工房を訪れるようになった。二人で月詠みの花の世話をしながら、織物の基礎を学んでいく。
「力を入れすぎないの。優しく、でもしっかりと」
エマの言葉は、かつてマリーお婆さんが自分にかけてくれた言葉と重なっていた。
「はい! あ、糸が……光ってる?」
「そう、それが『職人の祝福』よ。あなたの心が、素材と対話を始めたしるし」
リリーの目に、感動の涙が浮かんだ。
「ヴァンローズさん、不思議です。前は早く上手くなりたくて、焦ってばかりだったのに」
「うん?」
「でも今は、一針一針が楽しくて。まるで、お花たちと一緒にお話ししながら織ってるみたい」
エマは、静かに微笑んだ。そうだ。これこそが本当の技の継承なのだ。
ある日、リリーが得意げに新作を見せてきた。
「見てください! 月詠みの花をモチーフに織ってみたんです」
白い布地に、淡い紫色の花模様が浮かび上がっている。技術はまだ拙いが、確かな祝福が宿っていた。
「リリーちゃん、素晴らしいわ」
「本当ですか? でも、まだまだ下手で……」
「技術は、これからゆっくり磨いていけばいい。大切なのは、あなたがもう、本質を掴んでいること」
エマは、リリーの作品を窓辺にかざした。陽の光を通して、布地が淡く発光する。
「見て。あなたの想いが、こんなにも美しく形になってる」
その時、工房の入り口でノックの音がした。
「お邪魔します」
マリーお婆さんが、静かに姿を見せた。
「まあ、これは素敵な光景だわ」
お婆さんは、エマとリリー、そして窓辺に輝く布を見て、満足げに頷いた。
「エマ、あなた、立派な師匠になったのね」
「いいえ、私はただ……」
「いいのよ。技を継承するということは、こうして想いを紡いでいくこと。私たちの谷の伝統は、そうして受け継がれてきたのだから」
マリーの言葉に、エマは深く考え込んだ。そうか。自分は受け継ぎ、そして伝えていく。その営みの中で、自分自身も癒され、成長していくのだ。
「リリーちゃん」
「はい?」
「今度は、一緒に新しい作品を作ってみない? 私も、あなたから学べることがたくさんありそう」
少女の顔が、輝くように明るくなった。窓の外では、夕陽に照らされた月詠みの花が、二人の新たな出発を祝福するように、静かに光を放っていた。




