第八十九章「木霊の手紙1」
初夏の柔らかな日差しが窓から差し込む朝、エマは昨夜仕上げた藍染めのショールに最後の仕上げを施していた。窓から入る光に織物をかざすと、糸の一本一本が空の色を映したように輝き、まるで空そのものを切り取ったかのような深い青が広がる。エマの頬に自然と微笑みが浮かぶ。
前世では考えられなかった穏やかな満足感。光の谷での暮らしが始まってから長い間が過ぎ、エマの中に確かな変化が芽生えていた。完璧を求めて自分を追い込んでいた日々は遠い記憶となり、今は素材との対話を楽しみながら、心のままに創作を続けていた。
そんな彼女の思考を中断させたのは、軽やかなノックの音だった。
「はい、どうぞ」
ドアを開けたのは村の郵便配達人ヨーゼフだった。いつもの陽気な笑顔で、彼は帽子を軽く持ち上げてエマに挨拶する。
「おはよう、エマさん。今日は特別な手紙が届いているよ」
そう言って差し出されたのは、一見すると普通の封筒だったが、よく見ると封筒自体が薄い木の皮で作られている。宛名はエマ・ヴァンローズと書かれているが、差出人の欄には「森の木霊より」とだけ記されていた。
「変わった手紙だね。どこから届いたの?」
ヨーゼフは肩をすくめる。
「さあ、今朝配達かごを確認したら入っていたんだ。誰が入れたのかは見ていないよ」
エマは不思議そうに封筒を手に取る。触れた瞬間、月詠みの花が一瞬だけ淡い光を放ったような気がした。
「ありがとう、ヨーゼフ」
郵便配達人が去った後、エマは工房のテーブルに座り、木の皮でできた封筒を注意深く開いた。中から現れたのは薄い木の繊維で作られた紙のような一枚の葉だった。そこには流れるような文字で、「三日前のあなたからあなたへ」と書かれている。
エマは眉をひそめた。三日前の自分? 意味がわからない。手紙の内容はさらに奇妙だった。
*「聞こえますか。心の声が。言葉にならない想いの形が見えますか。時の輪の中で、あなたは私に出会い、私はあなたに手紙を書いています。森の入り口で待っています??三日前のあなたより」*
エマは首を傾げた。意味をなさない言葉の羅列に見えたが、どこか心の奥に響くような不思議な感覚があった。
「なんだろう、これ……」
返事を書こうにも宛先がわからない。エマは手紙を持って、マリーお婆さんのハーブ園に向かうことにした。
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マリーお婆さんの庭は、光の谷の中でも特別な場所だった。数えきれないほどの薬草や花々が精緻な配置で植えられ、空気そのものが生命力に満ちている。エマが訪れると、お婆さんは赤い実をつけた低木の手入れをしていた。
「おや、エマ。朝から珍しいね。何かあったのかい?」
エマは木の皮の手紙を見せながら、その内容を説明した。マリーお婆さんは話を聞くと、手を止めてじっと手紙を見つめた。
「ほう、これは珍しいね。『時の交差点』というものだよ」
「時の交差点?」
マリーお婆さんは優しく微笑んだ。
「光の谷では百年に一度、時の流れが交差する現象が起きるんだ。過去と現在と未来が交錯して、同じ人が違う時間軸で出会うことがある。それが今、起きているんだね」
エマは信じられない思いで手紙を見つめた。
「そんなことがあるんですか? でも、なぜ私に?」
「さあね。でもね、エマ。これは単なる偶然ではないよ。職人の森の精霊が試練を与えているんだ。お前さんの心の奥にある何かを引き出そうとしている」
エマは自分の心の奥……という言葉に思わず胸に手を当てた。前世から抱えている何か、まだ解放されていない何かがあるのだろうか。
「どうすれば良いでしょう?」
「手紙の言う通り、森に行ってみるといいさ。自分自身と出会うのはなかなか興味深い経験だよ」
マリーお婆さんの言葉に導かれ、エマは職人の森へと向かうことを決めた。




