第八十八章 春を織る少女
厳冬の朝、工房の窓を叩く冷たい北風に目覚めたエマは、いつもより早く仕事を始めることにした。暖炉に火を入れ、月詠みの花のお茶を淹れようとした時、小さなノックの音が響いた。
扉を開けると、そこには介助の女性に支えられた少女が立っていた。痩せ細った体は毛布を幾重にも巻きつけられ、蒼白の顔には汗が滲んでいる。一歩の移動さえ、深い呼吸を必要とするようだった。
「私……ミリアと、申します……お願いが……」
言葉を紡ぐのも辛そうな様子に、エマは慌てて二人を中へ招き入れた。暖炉の傍に置かれた肘掛け椅子に、介助の女性が慎重にミリアを座らせる。その仕草は、まるで壊れやすい硝子細工を扱うかのように優しい。
「温かいお茶を淹れますね」
エマは言いながら、少女の震える手に目を留めた。指先が僅かに青みを帯びている。
「春が……見たいんです」
ミリアは言葉の合間に何度も深い息を継ぎながら、か細い声で語り始めた。重い肺の病を患っているという。寒気が症状を悪化させるため、医師からは外出を固く禁じられ、窓辺に立つことすら許されない日々が続いているそうだ。
介助の女性が代わりに説明を続けた。
「昨日の診察で、先生から……もう春までは……」
女性は言葉を飲み込み、ミリアの肩に優しく手を置いた。少女は青ざめた唇で弱々しく微笑む。
「私、知ってるんです。でも、最後に……春だけは……」
ミリアの言葉に、工房の空気が凍り付いたように感じた。エマは少女の方へ歩み寄り、その小さな手を優しく包み込んだ。
「春を、織ってみましょう」
その言葉に、ミリアの瞳が大きく開かれた。
エマは急いでマリーお婆さんを訪ね、相談を持ちかけた。お婆さんは深い慈しみの眼差しで言った。
「季節の祝福じゃよ。昔から伝わる特別な技じゃ。だが、それには村人たちの力も必要になる」
エマは村を奔走した。ガラス職人のルーカスからは春の光を閉じ込めた硝子玉を、羊飼いのクララからは春の羊毛を、染め物師のリーゼからは若葉の色を分けてもらった。薬草園のトーマスは、春の香りを封じ込めた小瓶をくれた。
織機に向かい、エマは一本一本の糸に想いを込めていく。春の風、新芽の息吹、小鳥のさえずり、花々の彩り。村人たちの協力で集めた春の記憶が、少しずつ布に命を吹き込んでいった。
作業の合間、ミリアは工房に来ては、エマの織る様子を静かに見つめていた。その瞳には日に日に力強い光が宿っていく。
「エマさん、私にも何かできることはありませんか?」
エマは少し考えて、ミリアに小さな織り機を渡した。
「あなたの春への想いを、この布に織り込んでみましょう」
二人で黙々と織り続けた冬の日々。窓の外は相変わらず厳しい寒さが続いていたが、工房の中は確かな春の気配に満ちていった。
満月の夜、ついに布は完成した。エマが「祝福の雫」を注ぐと、布全体が淡い光を放ち始めた。その光は次第に強さを増し、やがて工房いっぱいに春の景色が広がった。
壁には桜が咲き、床には春の野花が芽吹き、空には幾羽もの小鳥が舞う。ミリアは目を輝かせ、その幻想的な光景の中に飛び込んでいった。
「温かい! 本当の春の風みたい!」
笑顔で駆け回るミリアの姿は、もう以前の病める少女とは思えないほど生き生きとしていた。
それから一週間後、不思議なことが起きた。エマの工房の庭に、一輪の梅が咲いたのだ。まだ二月も半ばというのに、その花は確かな春の訪れを告げていた。
ミリアの容態も奇跡的な回復を見せ始めた。医師でさえ首をひねるほどの変化に、エマは布に込められた想いの力を感じていた。
やがて本物の春が訪れた日、エマとミリアは満開の花畑の中を歩いていた。
「エマさん、あの時の布は、きっと魔法の布だったんですね」
エマは首を横に振った。
「違うの。あれは、みんなの想いが作った本物の春だったのよ」
春風が二人の髪を優しく撫でていく。エマは気付いたのだ。季節は巡るものではなく、人々の心が紡ぎ出すものなのだと。そして、それを織り上げる技は、決して一人のものではないということを。
工房に戻ると、織機の上で例の布が静かに光を放っていた。もう幻想的な春の景色は映し出さない。その代わりに、見る者の心に確かな希望の温もりを伝えている。エマは布に新しい名前を付けた。
「春告げの布」
それは光の谷に伝わる新しい物語の始まりとなった。




