第八十六章 雨上がりのレシピ
七日七晩の長雨が続いた光の谷。八日目の朝、ようやく雨は上がり、石畳に陽の光が差し込み始めた頃、エマの工房に悲痛な声が響いた。
「エマさん、お願いです! 助けてください!」
扉を開けると、村の老舗カフェ『青い鳥亭』の看板娘サラが、濡れた古いノートを抱えて立っていた。金色の巻き毛から雫が零れ、頬には涙の跡が光る。
エマは慌ててサラを工房に招き入れた。暖炉に火を入れ、月詠みの花のお茶を淹れる。
「落ち着いて、何があったの?」
サラはお茶に手を伸ばしたまま、震える声で語り始めた。
「祖母の形見の、虹色プリンのレシピ帳が……雨に濡れてしまって」
古びたノートを開くと、インクが滲んで判読できない文字が並んでいた。虹色プリンは『青い鳥亭』の看板メニュー。不思議な七色の光を放つデザートで、食べた人の心を温める力があると言われていた。
「近々、お店の十周年記念で、久しぶりに作ろうと思ったのに……」
エマはサラの手からそっとノートを受け取った。紙に触れた瞬間、かすかな温もりを感じる。「祝福の雫」が反応しているのだ。
「ねえサラ、このレシピ帳、作る過程を一つずつ織物に写し取ってみない?」
エマは織機の前に座り、「祝福の雫」を呼び寄せる。透明な雫が宙を舞い、レシピ帳に触れると、かすかな光を放った。
「まずは、レシピ帳に残された想いを読み取ってみましょう」
エマが糸を紡ぎ始めると、織機から温かな光が漏れ始めた。光は次第に強まり、やがて空間に映像が浮かび上がる。
そこには若かりしサラの祖母の姿があった。真夜中の厨房で、何度も失敗を重ねながらプリンを作る様子。アクシデントで材料を落としたとき、偶然にも七色の光を放つプリンが完成した瞬間。喜ぶ客の姿。すべてが織物に映し出されていく。
「おばあちゃんが、こんなに……」
サラの目に涙が溢れる。映像は続く。店の経営に行き詰まったとき、プリンの売り上げで支えられた日々。サラが生まれた日、祝いのプリンを作る祖母の嬉しそうな表情。そして、レシピを受け継いでほしいとサラに託す最期の場面。
エマは黙々と織り続けた。レシピ帳に込められた想いが、一本一本の糸となって布に命を吹き込んでいく。
昼過ぎ、一枚の布が完成した。エマが「祝福の雫」を布に落とすと、浮かび上がったのは詳細なレシピだった。材料、手順、そして何より大切な、心を込めて作ることの意味が、文字となって織り込まれていた。
「これは……単なるレシピ以上のものですね」
エマは気づく。料理もまた、工芸と同じように想いを形にする手段なのだと。
その日の夕方、『青い鳥亭』の厨房で、サラは織物を見ながらプリンを作り始めた。エマも手伝い、二人で丁寧に工程を進めていく。
夕陽が差し込む頃、プリンが完成した。注ぐ光に照らされ、プリンは虹色の輝きを放つ。一口食べたサラの頬に、涙が伝う。
「おばあちゃんの味そのままです。でも、そこに何だか新しい優しさも加わってる……」
エマは織物を見つめ直す。技術を伝えることは、想いを伝えること。それは工芸も料理も、きっと同じなのだ。
「ありがとう、エマさん。このレシピ、次は私が娘に伝えていきたいです」
窓の外では、雨上がりの空に大きな虹が架かっていた。エマは、伝統とは形だけでなく、その過程に込められた想いこそが大切なのだと、心に刻むのだった。




