第八十五章 星降る庭の小さな音楽会
真夏の宵、月詠みの花が静かに揺れる庭で、エマはフルートの少女リリアと向き合っていた。銀色の月光が二人を優しく包み、遠くでは虫の音が夜の訪れを告げている。
「エマさん、この布に音を織り込むって、本当にできるんでしょうか?」
リリアの手には、古びたフルートが握られている。その表面には、幾度となく愛おしく磨かれた跡が残っていた。
エマは月詠みの花に近づき、その花びらに宿る露を丁寧に集め始める。
「できるかどうかは、やってみないとわからない。でも、マリーお婆さんが教えてくれた『音織り』の技法なら、きっと……」
集めた露を織機に注ぎ込むと、それは七色の輝きを放ち始める」。エマは目を閉じ、「祝福の雫」の力に意識を集中させる。
「リリア、フルートを……」
リリアが音を奏で始めると、それは夜の庭に静かに溶けていく。月詠みの花が一斉に淡い光を放ち、音色に合わせて揺れ始める。エマの手元では、織機が音もなく動き始めていた。
織り込まれていく布には、不思議な模様が浮かび上がる。それは音符のようでもあり、花びらのようでもある。フルートの音色が織物に溶け込んでいくたびに、布全体が微かに輝きを放った。
「あの、エマさん……織機が、歌ってる気がします」
リリアの言葉に、エマは初めて気が付く。確かに織機からは、フルートに呼応するような微かな響きが生まれていた。それは楽器の音でも、人の声でもない、まるで星が奏でる音のような、不思議な調べだった。
月が天頂に昇り、庭全体が銀色の光に包まれる頃。エマの手から、一枚の布が完成した。その布は、触れるたびに微かな音色を奏で、月光を受けると星のような光の粒を散りばめたように輝く。
「これは……まるで星空のよう」
リリアが布に触れると、さらに不思議な現象が起きた。布から零れ落ちた光の粒が、夜風に乗って庭中を舞い始めたのだ。それはまるで、目に見える音符のように、庭の空間を自由に泳ぎ始める。
光の粒は次第に数を増やし、やがて庭全体が星空のような景色に包まれていく。月詠みの花が一斉に光を放ち、まるで光のオーケストラのような空間が生まれた。
「エマさん、これって……」
「ええ、布が音楽を奏でているの。でも、この音色は私が織り込んだものじゃない。庭の花々や、夜風や、月明かりまでもが、一緒に奏でてくれているみたい」
その時、エマは大切なことに気付く。音楽は決して一人で作り上げるものではない。それは自然と、環境と、そして聴く人の心が響き合って、初めて完成するものなのだと。
夜が更けていく中、小さな音楽会は続いていった。月詠みの花は光の粒を放ち続け、布は新しい音色を紡ぎ出し、フルートはそのすべてを優しく包み込んでいく。
夜明け前、最後の音が消えていく頃。エマは布を優しく折り畳みながら、リリアに告げた。
「この布は、あなたに差し上げるわ」
「え? でも、こんな素晴らしい作品を……」
「音楽は、閉じ込めておくものじゃない。この布と一緒に旅をして、新しい音色を見つけていってほしいの」
朝もやの立ち込める中、リリアは新しい旅立ちの途についた。その手には、星空を織り込んだ布が大切そうに抱えられている。エマは庭に残り、月詠みの花の間で静かに目を閉じる。
織物に音を織り込むことはできた。でも、本当に大切なのは、その音色が誰かの心に届き、新しい音楽を生み出すこと。エマは、そんな小さな、でも確かな気付きを胸に刻むのだった。
庭には、まだ微かに星の光が残っていた。それはやがて朝日に溶けていったが、エマの心には、忘れられない音色として永遠に響き続けることだろう。




