第八十一章 門付け
厳冬の夕暮れ、光の谷に雪が降り始めた。工房の窓から外を眺めながら、エマは溜め息をつく。商売の難しい時期、注文も少なく、工房の暖炉の火も控えめにせざるを得なかった。
その時、かすかな鈴の音が聞こえてきた。
「ご祈祷を……」
か細い声に振り返ると、戸口に一人の老婆が立っていた。背中を丸め、杖を突きながら、首から下げた小さな鈴を鳴らしている。白髪は雪で濡れ、古びた着物は裾が凍てついていた。門付けだ。各家を回って祈祷をし、わずかな施しを受ける風習は、この地方では珍しくない。
「まあ、こんな雪の中を」
エマは老婆を暖炉の傍へと招き入れた。
「ありがとう。若いのに優しい心をお持ちで」
老婆は暖炉の前で手を温めながら、にっこりと微笑んだ。その笑顔には不思議な魅力があり、エマは思わず見入ってしまう。
月詠みの花の鉢が、老婆の方に向かって静かに揺れた。
「おや? この花、わたしに何か言いたいようですね」
老婆は月詠みの花に手を伸ばす。途端、花びらが青白い光を放った。
「あなた、祝福の雫をお持ちなのですね」
エマは驚いて老婆を見つめた。祝福の雫を見分けられる者は、並の旅人ではない。
「わたしも昔は、光の谷で織物を」
老婆は言葉を濁したが、その瞳は深い懐かしさを湛えていた。
「今夜は暖かい部屋をお使いください」
エマは迷わず申し出た。吹雪は強くなる一方で、このまま老婆を送り出す訳にはいかなかった。
夜が更けていく。暖炉の火影に照らされた老婆の横顔は、どこか聖なるもののように見えた。
「織物には、祈りが込められているのですよ」
老婆は静かに語り始めた。
「一針一針に込められた想い。それは目に見えない祈り。だからこそ、人の心を温めることができる」
エマは老婆の言葉に深く頷いた。技術や完成度を追い求めるだけでは、本当の織物は作れない。それは、エマの心の奥底でずっと感じていたことだった。
「でも、どうすれば祈りを織り込めるのでしょう?」
「それはね……」
老婆はゆっくりと立ち上がると、エマの織機の前に座った。その手つきは慣れたもので、糸を紡ぐ姿は祈りを捧げる僧侶のようだった。
夜が明けた時、老婆の姿は消えていた。しかし織機の上には、一枚の布が残されていた。それは見たこともないような、深い祈りの光を湛えていた。
工房の片隅で、月詠みの花が静かに揺れている。花びらの上に、一滴の雫が光っていた。それは涙のようでもあり、祈りのようでもあった。
その日から、エマの織物には不思議な温もりが宿るようになった。それは技術では説明できない、祈りの力だった。
冬の朝、エマは織機に向かいながら、あの老婆の言葉を思い出す。一針一針に込める祈り。それは見えない糸となって、人々の心を温かく包んでいく。
窓の外では、新しい雪が静かに降り始めていた。




