第八十章 旅芸人の調べ
夏の日が傾きはじめた頃、光の谷に一人の旅芸人が訪れた。背中を丸め、すり切れた着物を纏った老人は、くたびれた三味線を抱えていた。その姿は夕陽に溶けそうなほど儚く、かつ確かな存在感を放っていた。
エマの工房の前で老人は立ち止まり、静かに三味線の弦を爪弾いた。凛とした音色が、夕暮れの空気を震わせる。
「まあ……」
エマは思わず手を止めた。織機から零れ落ちる糸が、陽の光を受けて輝いている。
老人の奏でる三味線は、どこか懐かしい調べを帯びていた。哀愁を帯びた音色でありながら、不思議と心が温かくなる響きだった。エマは工房の窓を開け、その音に耳を傾けた。
「どうぞ、お上がりください」
エマの声に、老人は穏やかに頷いた。
工房に入った老人は、「源一」と名乗った。その手には年季の入った三味線が、まるで体の一部であるかのように馴染んでいた。
「若いお嬢さん、この糸の音に聞き覚えはありませんかな?」
源一は再び三味線を爪弾く。その音は、エマの織る布から零れる「祝福の雫」の輝きと不思議な共鳴を始めた。
マリーお婆さんが訪れたのは、そんな時だった。
「まあ、これは……」
マリーは源一の姿を見て、目を細める。
「五十年前、私の母が織った『調べの反物』のことを知っているのは、もう源一さんだけになってしまいました」
源一は静かに微笑んだ。
「あの反物には、私の三味線の音が織り込まれておりました。今日は、その音を探して旅を続けているのです」
エマは息を呑む。伝説の反物の話は、マリーお婆さんから何度か聞いていた。音を織り込むという不思議な技は、今では失われてしまったという。
その夜、源一の三味線は更なる変化を見せた。月詠みの花に照らされた工房で、音色は七色の光となって舞い始めた。エマの織機も呼応するように、かすかな音を奏で始める。
「これぞ、音と織物の対話」
マリーお婆さんの言葉に、エマは強く頷いた。源一の三味線に合わせ、エマの手は自然と動き始める。織機を打つ音が、三味線の調べと溶け合っていく。
夜が更けていくにつれ、不思議な光景が広がっていった。源一の奏でる音が、エマの織る布に吸い込まれていくかのようだった。月詠みの花は静かに輝きを増し、「祝福の雫」が音色を帯びて降り注ぐ。
夜明け前、源一は立ち上がった。
「この布に、私の音は確かに宿りました。これで旅の目的は果たせました」
そう言って源一は、古びた反物の切れ端をエマに差し出した。
「これは五十年前の『調べの反物』の一部。新しい音を織る者に、託したいと思っておりました」
朝日が昇る頃、源一の姿は消えていた。しかし工房に残された反物の切れ端からは、かすかな三味線の音が聞こえてくる。エマの織り上げた布もまた、源一の調べを静かに奏でていた。
それからというもの、エマの織る布には不思議な音色が宿るようになった。優しさに満ちた音色は、触れる人の心を温かく包み込んだという。光の谷に新しい物語が加わった夏の日の出来事だった。




