第七十五章 深き井戸の夢
朝露が光る庭で、エマは月詠みの花の手入れをしていた。その時、ふと足元から不思議な響きが聞こえた。シャベルで慎重に土を掘り進めると、古い石組みの輪郭が姿を現す。苔むした石の間から、かすかな光が漏れている。
「まさか、これは……」
マリーお婆さんを呼び、二人で掘り進めると、そこには忘れ去られた古井戸が佇んでいた。井戸の底から漂う青い光は、月詠みの花と呼応するように明滅している。
「これは『夢見の井戸』じゃ。百年前、村人たちの想いを映し出したという伝説の井戸」
マリーお婆さんの声には、懐かしさと畏れが混じっている。
その夜、エマは不思議な夢を見る。クララが羊たちと戯れる夢。しかしその羊たちは、クララの心の中にある不安や迷いの形を取っていた。翌朝、目覚めたエマは、自分が見たものがクララの夢そのものだったことを直感する。
井戸は次々と村人たちの夢を映し出していく。リーゼの夢には、レース編みの技法書に込められた亡き祖母への想いが。アンナの夢には、完璧な作品を求めるあまり萎縮する自分の姿が。ルーカスの夢には、ガラスに閉じ込められた子供時代の寂しさが。
「エマ、あなたには見えるのですね? 私たちの心の奥底に眠るものが」
アンナの問いかけに、エマは静かに頷く。
「見えるだけじゃない。織物に織り込むことができるの」
エマは井戸から汲み上げた水で糸を染め、夢の風景を織り始める。月明かりの下、織機は静かなリズムを刻む。できあがった布には、村人たちの夢が光となって織り込まれていた。
それは単なる織物ではない。触れる者の心の深みに潜む真実の願いを映し出す鏡となった。クララは自身の不安と向き合い、新たな決意を得る。リーゼは祖母の想いを受け継ぐ覚悟を。アンナは完璧を求めすぎる自分を許す勇気を。ルーカスは過去の寂しさを抱きしめる強さを。
満月の夜、村人たちが集まった工房で、エマは「夢見の織物」を広げる。布地が月光を受けて七色に輝き、それぞれの心に眠る光と影が浮かび上がる。
「私たちの心の奥底にあるものを、こんなにも美しく織り上げてくれて……」
マリーお婆さんの目には、深い感動の涙が光っていた。
「一人一人の夢は、みんなの心とつながっている」
エマがそうつぶやいた時、井戸から立ち昇った光が織物全体を包み込み、工房は温かな光に満たされた。それは村人たちの心が一つになった証だった。
やがて夜明けの光が差し込み、新しい朝が始まる。井戸は静かに眠りについたが、織物に織り込まれた想いは、永遠に光り続けることだろう。
エマは庭に立ち、朝日に照らされた井戸を見つめる。もう誰も孤独ではない。それぞれの心の深みにある想いが、この織物によってつながっているのだから。
月詠みの花が、新しい芽を出し始めていた。




