第七十四章 市場の一隅
早朝の市場に、まだ朝もやが漂っていた。エマは石畳の上に並べられた野菜たちを眺めながら、その瑞々しい輝きに見入っていた。
「エマちゃん、手伝ってくれないかね?」
声をかけたのは、いつも市場の隅で野菜を売っているマルタおばあさんだった。腰の具合が悪いらしく、今朝は特に辛そうにしている。
「ええ、もちろん」
エマの返事に、マルタおばあさんの顔がパッと明るくなった。
真っ赤なトマト、みずみずしいキュウリ、色とりどりのパプリカ。野菜たちが朝露を纏って輝いている。エマは「祝福の雫」の力を感じながら、それぞれの野菜に触れていく。すると、野菜たちが喜ぶように、より一層の輝きを放った。
「へえ、エマちゃんが触るだけで、こんなに綺麗になるんだね」
マルタおばあさんの目が細くなる。エマは少し照れながら、野菜を丁寧に並べ直していく。
朝市が始まると、次々とお客が訪れる。
「このトマト、とても元気そうね」
最初のお客は、幼い子を抱えた若い母親だった。
「ええ、マルタさんが愛情込めて育てたんです」
エマが答えると、マルタおばあさんが優しく微笑んだ。
「実はね、このトマトたち、孫と一緒に育てたんだよ」
マルタおばあさんの声には、確かな誇りが滲んでいた。
日が昇るにつれ、市場はさらに賑わいを増していく。ガラス職人のルーカスが買い物に来たかと思えば、レース編みのリーゼも野菜を選びに来る。みんなが自然とマルタおばあさんの店先で立ち止まり、世間話に花を咲かせていく。
「この大根、煮物にするとおいしいわよ」
マルタおばあさんが客に語りかける声は、まるで家族に話しかけるように温かい。エマは野菜を手渡しながら、その言葉一つ一つに込められた愛情を感じていた。
昼過ぎ、陽射しが強くなってきた頃、マリーお婆さんが立ち寄った。
「エマ、今日は商売の手伝いかい?」
「はい、マルタさんのお手伝いをさせていただいています」
「それは良いことだね。商いは人の心を知る近道さ」
マリーお婆さんは意味ありげな笑みを浮かべた。
午後になると、市場を訪れる人の流れが変わってきた。仕事帰りの職人たち、夕飯の買い物に来た主婦たち。それぞれが足を止め、野菜を選び、言葉を交わしていく。
エマは野菜を手渡すたびに、その野菜がこれから誰かの食卓で、どんな料理になるのだろうと想像を巡らせた。キュウリは浅漬けに、ナスは煮びたしに、トマトはサラダに。一つ一つの野菜に、人々の暮らしが詰まっているように感じられた。
夕暮れ時、最後の客が去っていく。残った野菜はわずかだった。
「エマちゃん、本当にありがとう」
マルタおばあさんが、小さな籠に野菜を詰めながら言った。
「お礼と言っては何だけど、これを持って帰っておくれ」
籠には、朝一番に「祝福の雫」で輝いていたトマトが入っていた。
「マルタさん、こんなに……」
「いいのよ。今日は久しぶりに楽しかった。孫と市場に立っていた時みたいでね」
マルタおばあさんの瞳が潤んでいた。エマは胸が熱くなるのを感じた。
夕陽が石畳を赤く染める中、エマは籠を抱えて帰路についた。市場の喧騒は静まり、代わりに虫の音が聞こえ始めている。
「また明日も来てくれるかい?」
背中越しに聞こえたマルタおばあさんの声に、エマは振り返って満面の笑みで頷いた。
帰り道、エマは考えていた。人と人とのつながりは、こんなにも温かいものなのだと。市場の片隅で交わされる何気ない会話の中に、確かな幸せが息づいていた。
その夜、エマが作ったトマトスープは、不思議と優しい味がした。まるで、マルタおばあさんの温もりが溶け込んでいるかのように。




