第七十三章 雨上がりのパン
秋雨の降り続く午後、エマの工房からはパンの甘い香りが漂っていた。裏庭のハーブを練り込んだ生地が、石窯のオーブンの中でゆっくりと膨らんでいく。窓を叩く雨音に耳を傾けながら、エマは月詠みの花に水やりをしていた。
「あ……」
工房の扉が突然開き、ずぶ濡れになった三人の子供たちが飛び込んできた。市場の魚屋の息子トビアス、パン屋の娘エリカ、そして羊飼いの末っ子ハンスだ。
「ごめんなさい! 急に雨が強くなって……」
エリカが申し訳なさそうに言う。水滴が床に落ちていくのを見て、エマは思わず微笑んだ。
「大丈夫よ。ちょうどパンが焼けるところだから、温まっていってね」
エマが暖炉の前に椅子を出すと、子供たちは恥ずかしそうに座った。トビアスの膝には、濡れた紙包みが載っている。
「それは?」
「お父さんからの差し入れ。エマさんにお魚を持っていってあげてって」
トビアスが誇らしげに包みを差し出した。新鮮な川魚の香りが、パンの匂いに混ざる。
「まあ! ありがとう。これは明日のスープに入れましょう」
エマが台所から温かい飲み物を持ってくると、子供たちの目が輝いた。月詠みの花のお茶に、マリーお婆さんから教わった蜂蜜を少しだけ加えてある。
「エマさん、このパンの匂い、お母さんが焼くのと違うね」
ハンスが首をかしげる。
「ええ、昨日摘んだタイムとローズマリーを入れてみたの」
「ハーブって、お薬みたいなものでしょう?」
エリカが不安そうに尋ねた。
「違うわ。ハーブは、私たちの毎日の食事を少しだけ特別にしてくれる、魔法のような存在なの」
エマは月詠みの花を指さした。その瞬間、花びらが淡く光を放ち、子供たちから歓声が上がる。
「わあ! お花が光った!」
「エマさんの花、いつも不思議ね」
オーブンから、こんがりと焼けたパンを取り出す頃には、雨も小降りになっていた。エマがパンを切り分けると、ハーブの香りが工房中に広がった。
「あったかい……」
トビアスが口に運んだ瞬間、目を丸くした。
「甘い! でも、変な味じゃない」
「お母さんに教えてあげたいわ」
エリカが真剣な表情で言う。パン屋の娘らしい感想に、エマは嬉しくなった。
子供たちが帰る頃には、雨は上がっていた。工房の前の石畳が、夕陽に濡れて輝いている。
「また来ていいですか?」
ハンスが期待を込めて尋ねた。
「ええ、もちろんよ。でも、今度は晴れた日だといいわね」
エマが答えると、子供たちは弾むような足取りで走り去っていった。その背後の空に、七色の虹が架かっている。パンを包んだ布の端を持ちながら、エマは静かに微笑んだ。
翌朝、パン屋のマルタが訪ねてきた。
「エリカが、エマさんのパンのことを話してくれたの。ハーブを使うなんて、素敵なアイデアねって」
マルタの手には、まだ温かい蒸しパンが載っている。
「私も、少し冒険してみたの。このパンには、裏庭で育てているミントを入れてみたわ」
二人は笑顔で顔を見合わせた。小さな出会いが、新しい風を運んでくる。エマは、そんな光の谷での暮らしが、心から愛おしく感じられた。
工房の窓辺では、雨に濡れた月詠みの花が、静かに輝きを増していた。




