第七十二章 霧の向こうの風景
夜明け前の霧が、羊飼いの丘を深く包み込んでいた。エマは湿り気を帯びた空気の中を、月詠みの花を探して歩を進める. この季節、花は珍しく丘の上でも咲くという。
足元から立ち上る霧が、すべての輪郭を曖昧にしていく。石ころひとつ見えない道を、エマは手探りで進んだ。
「月詠みの花……どこにあるのかしら」
声が霧に吸い込まれ、どこまでも響かない。世界が綿のような白さに閉ざされていく。
その時、かすかな歌声が聞こえた。若い女性の澄んだ声が、霧の中から漂ってくる。エマは声の方へと足を向けた。
霧が渦を巻くように揺らめき、一人の女性の姿が浮かび上がる。二十代半ばといった年齢で、深い紫の瞳を持ち、銀色の長い髪を風に揺らしている。見覚えのある気配、けれども確かに初めて見る人。
「迷子になったの?」
女性の声は、どこか懐かしい響きを持っていた。
「ええ、月詠みの花を探していたのですが……」
「あら、それなら私も同じよ」
女性は微笑んだ。その表情に、エマは既視感を覚える。
「私はマリー。あなたは?」
その名前にエマは息を呑んだ。マリー――まさか、あのマリーお婆さんの若かりし日の姿?
「エマ、です」
「素敵な名前ね。ねえ、一緒に探してみない?」
マリーは歩き始める。その足取りは軽やかで、霧さえも道を譲るかのよう。エマは黙ってその後を追った。
「知っているかしら? 月詠みの花は、見る人の心に映るものを映し出すの」
マリーの声が、霧の中で静かに響く。
「それは、この霧のように」
エマの言葉に、マリーは立ち止まって振り返った。
「そうね。霧は境界を曖昧にする。でも、それは新しい見方を教えてくれるのよ」
二人は黙って歩き続けた。時折、靴底が湿った草を踏む音だけが響く。
「あら、見えてきたわ」
マリーが指さす先に、かすかな光が揺らめいていた。近づくと、月詠みの花が一面に広がっている。霧の中で、花びらが青白い光を放っていた。
「美しい……」
エマの声が、花々の間に溶けていく。
「でも、不思議ね」
マリーが言った。
「何がですか?」
「これは確かに月詠みの花だけど、私の知っているのとは少し違う。まるで……未来の花のよう」
エマは息を飲んだ。確かにこれは、マリーお婆さんが育てている花と同じ。けれども、まだ若いマリーの目には違って映るのだろう。
「時は流れるのね」
マリーの声が、深い余韻を帯びて響く。
「でも、この花は変わらない」
エマは答えた。花びらが、二人の言葉を受け止めるように輝きを増す。
「そうね。だから私たちは、ここで出会えたのかもしれない」
マリーの微笑みに、エマは心を打たれた。
霧が薄らぎ始める。夜明けの光が、東の空をほのかに染めていく。
「さようなら、エマ」
マリーの姿が、朝もやの中に溶けていく。その瞳に映った微笑みだけが、しっかりとエマの心に刻まれた。
霧が晴れたとき、丘一面に月詠みの花が咲き誇っていた。エマは一輪を摘み、その花びらに触れる。どこか懐かしい香りが、指先から心に染み込んでいく。
工房に戻ったエマは、マリーお婆さんを訪ねた。
「おや、その花は」
マリーお婆さんは、エマが持つ月詠みの花を見つめた。
「丘の上で摘んできたの」
「そう。昔、私も丘で摘んだことがあったわ。霧の朝だった」
お婆さんの目が遠くを見つめる。エマは黙ってうなずいた。二人の間で、月詠みの花が静かに輝きを放っていた。
時は流れ、けれども確かに永遠なものがある。エマはそっと花びらに触れ、その真実を心に刻むのだった。




