第七十章 漆黒の朝
光の谷に奇妙な朝が訪れた。時計塔が五時を告げても、六時を告げても、空は暗いままだった。月も星も消え、ただ濃い闇が谷を覆っている。
エマは工房の窓辺に立ち、不思議な夜明けを見つめていた。裏庭の月詠みの花も、いつもの青白い光を失っている。
「エマ!」
階下から聞こえた声は、クララのものだった。
「大変なの。羊たちが不安がって……」
クララの声には切迫した響きがあった。エマは急いで階下に降り、扉を開ける。外には既に数人の村人が集まっていた。
「聖ルチア教会に集まろう」
ヴィルヘルム神父の落ち着いた声が、闇の中から響いてきた。
教会に着くと、既に多くの村人が集まっていた。ガラス職人のルーカスは、ステンドグラスに灯りを灯そうとしていた。しかし、いつもの「祝福の雫」が宿る気配はない。
「光が……消えてしまったの?」
リーゼの不安げな声に、誰も即答できなかった。
「私にできることがあるはず」
アンナが静かに言って、陶器に手をかける。普段なら温かな光を帯びるはずの器が、今は冷たい感触を残すだけだった。
エマは織機の前に座り、目を閉じた。暗闇の中で、糸の感触だけを頼りに布を織り始める。
「光を……織り込むの」
リリーが、エマの傍らで見守っている。
一刻、また一刻と時が過ぎていく。教会の中で、それぞれの職人が自分の技で光を生み出そうと試みていた。トーマスは金属を叩き、その響きに光を宿そうとする。リーゼはレースを編み、その透かし模様に光を招こうとする。
エマの織る布は、暗闇の中でゆっくりと形を成していく。
「何か、見えてきた」
マリーお婆さんが、エマの織機に近づいてきた。
「これは……」
織り上がっていく布には、かすかな光の粒が宿り始めていた。それは星のように、また蛍のように、小さくも確かな輝きを持っている。
「みんなの技に宿る光を、私が織り込んでいるの」
エマの言葉に、職人たちが近寄ってきた。
「私たちの中に、光はあったのね」
アンナの陶器が、わずかに温かみを帯び始める。
「外からの光がなくても、私たちには……」
ルーカスの言葉が途切れたとき、エマの布から放たれた光が教会内を照らし始めた。それはステンドグラスを通り抜け、闇の向こうへと広がっていく。
トーマスの金属細工が輝きを増し、リーゼのレースが光を透過させ始める。クララの紡いだ糸が月光のような柔らかな光を放ち、リリーの手元でも小さな光が生まれ始めていた。
「光は、ずっと私たちの中にあったのね」
エマの織り上げた布は、今や七色の光を静かに放っている。その光は教会を満たし、窓から外へと溢れ出していった。
そのとき、東の空がわずかに明るみを帯び始めた。
「夜明けが……」
太陽は、まるで職人たちの光に導かれるように、ゆっくりと顔を出した。朝焼けは、いつも以上に深い色味を持っていた。
光の谷に、新しい朝が訪れた。エマの布は今も柔らかな光を放ち続けている。それは、暗闇の中で見出された、確かな希望の証だった。
「これからは、この布を『夜明けの記憶』と呼びましょう」
マリーお婆さんの言葉に、全員が静かにうなずいた。教会のステンドグラスに朝日が差し込み、床に色とりどりの光の模様を描き出している。
エマは織り上がった布に触れながら、心の中で誓った。どんな暗闇の中でも、光は必ず見出せるということを、これからも織り続けていこうと。
「新しい朝が来たわね」
クララの言葉に、エマは穏やかに微笑んだ。窓の外では、月詠みの花が再び青白い光を放ち始めていた。光の谷は、新たな輝きを得て、静かに一日を始めようとしていた。




