第六十八章 空の仕事
朝、エマは織機に向かっていた。大きな窓から、秋の空が広がっている。
雲一つない青さが、ふと目に留まる。
「なにもない……」
エマは織りかけの布から手を離した。
前世では、つねに何かを付け加えようとしていた。デザインに、演出に、映像に。休む間もなく、作品に魂を削って注ぎ込んでいた。
空は、ただそこにある。
青い布地のように広がる空には、何も足されていない。何も引かれてもいない。
「エマ、お疲れさま」
マリーお婆さんが、薬草を抱えて訪ねてきた。
「その布、綺麗な色合いね」
織機に掛かった布は、空の青さを映していた。
「でも、まだ足りないような気がして……」
「本当かい?」
マリーお婆さんの問いに、エマは答えられない。
「祝福の雫は、在るものを在るように導くだけさ」
マリーお婆さんは窓の外を指さした。
「空を見てごらん。何もないように見えて、実は光で満ちている」
エマは深く息を吸い込んだ。
そうだ。
空は、ただそこにある。
「私、分かりました」
エマは織機に向かい直した。今度は、何も付け加えようとはしない。
織物に宿る「祝福の雫」が、かすかに輝きはじめる。
布は、ただ空のように在ることを許された。
技を削ぎ落とすごとに、布は深い青さを帯びていく。
「ああ、これでいいんだ」
マリーお婆さんの目が細められる。
窓の外では、鳥が一羽、青空を横切っていった。
エマは織り続けた。何も加えず、何も引かず。
完成した布は、まるで空そのものだった。
「不思議ね」
アンナが工房を訪れ、布に触れた。
「何もしていないのに、こんなに深みがある」
「そうね」
エマは微笑んだ。
「ただ、在るがままを織っただけ」
裏庭の月詠みの花が、静かに頷くように揺れる。
「祝福の雫」が、布地に宿った空の光を温かく包み込んでいく。
エマは今まで気づかなかった。
何も足さないことが、時として最も豊かな表現になることを。
空のような布は、やがて「空織」と呼ばれるようになった。
技を削ぎ落とすことで見出された、光の谷の新しい織物。
エマはそれを誇らしく思うでもなく、ただ織り続けた。
空が、ただそこにあるように。




