第六十七章 月下独酌
月が昇る頃、エマは裏庭に一人座っていた。机の上には、マリーお婆さんから貰った古い徳利と猪口。月詠みの花が、静かに青白い光を放っている。
「今宵は、私だけの時間」
エマは口笛を吹き、月を見上げた。前世では、こんな風に月を眺める余裕もなかった。いつも締切に追われ、夜更けまでパソコンに向かっていた。
猪口に注がれた蜂蜜酒が、月光を受けて輝く。一口含むと、懐かしい記憶が蘇ってきた。
前世の最後の日々。
病室の窓から見えたあの月は、今日のように澄んでいただろうか。
エマは静かに目を閉じた。
耳に入ってくるのは、虫の音と、月詠みの花のかすかな鈴の音。
「ずいぶんと、遠くまで来たものね」
月詠みの花が、エマの言葉に呼応するように揺れる。
酒を一口含むたびに、前世の記憶が波のように寄せては返す。完璧を求めすぎて、周りが見えなくなっていた日々。しかし不思議と、今はその記憶さえも愛おしく感じられた。
月が徐々に昇っていく。エマは織機のある工房を見上げた。そこには新しい織物が、まだ途中の姿で待っている。
「そうか……」
エマはふと気づいた。寂しさは消えない。けれどそれは、織物に深みを与えてくれる大切な感情なのかもしれない。
立ち上がり、工房へと向かう。月明かりの中、織機に向かって座る。
「織らせて」
エマの手が動き始める。月の光を浴びた糸が、まるで銀色の川のように流れていく。
寂しさも、懐かしさも、すべてを織り込んでいく。前世の記憶も、今の想いも、糸となって布に命を吹き込んでいく。
夜が更けていく中、エマの織る布は次第に深い輝きを帯びていった。それは月光のような、どこか儚くも清らかな光だった。
「祝福の雫」が一滴、布の上に落ちる。その瞬間、布全体が月のように輝き始めた。
エマは動きを止め、できあがった布を見つめた。そこには、寂しさの中にある確かな温もりが織り込まれていた。
「これでいいんだ」
窓の外では、月詠みの花が静かに頷いているように見えた。夜明けまでまだ長い時間があったが、エマの心は不思議な満ち足りた感覚に包まれていた。
織機に寄りかかり、エマは月を見上げる。前世では見過ごしてきた月の美しさが、今はしみじみと心に染みわたる。
「ありがとう」
誰に向けての言葉だったのか、エマ自身にもわからなかった。ただ、その言葉と共に心が静かに澄んでいくのを感じた。
月が西に傾き始めた頃、エマは完成した布を広げた。そこには、寂しさと温もりが不思議な均衡を保ちながら織り込まれていた。それは前世の記憶と現世の幸せが、一枚の布の中で調和した姿だった。
朝露が降り始める頃、エマは静かに布を畳んだ。明日からまた、新しい物語が始まる。けれど、この夜の静謐は、きっと心の中でいつまでも輝き続けるだろう。
月詠みの花は、最後の光を放って、夜明けの中に溶けていった。




