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光の谷のクラフトマスター ~癒しの転生スローライフ~  作者: 霧崎薫


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第六十六章 炉端の語らい

 冬の闇が深まり、エマの工房に静寂が満ちていた。暖炉の火が柔らかな明かりを投げかけ、古い織機の輪郭をぼんやりと照らしている。


 窓の外では雪が音もなく降り続け、世界を白く染めていく。エマは暖炉の前に座り、織機の佇まいを見つめていた。


「おかしいわね……」


 独り言のように呟く。いつもの織機なのに、今宵は何か違う気配を感じる。前世では気付かなかった、物の持つ声を聴く力。それは「祝福の雫」がもたらした新しい感覚だった。


 暖炉の火が揺らめき、その光が織機に舞う。すると不思議な音が響いた。カラコロ、カラコロ。まるで誰かが糸を紡いでいるような音色。


 エマは息を潜めて耳を澄ませた。


「この音は……」


 記憶の底から、懐かしい音が蘇る。前世で聴いた、雨の日の風鈴のような。雪の朝の風車のような。


 ゆっくりと立ち上がり、織機に近づく。手をかざすと、温かな振動が伝わってきた。まるで生きているかのように、織機が呼吸をしているような感覚。


「わかったわ……私に語りかけてくれているのね」


 エマは目を閉じ、織機の声に耳を傾けた。すると、これまでこの織機が紡いできた無数の物語が、波のように押し寄せてくる。


 喜びも、悲しみも、祈りも、願いも、すべてが糸となって織り込まれていた記憶。それは光の谷の歴史そのものだった。


 暖炉の火が大きく揺らめき、織機が新しい音を奏でる。カラン、コロン。今度は違う調べ。エマの心の中で、何かが目覚めていく。


「そうか……」


 エマはゆっくりと織機に向かい合った。前世では、常に新しいものを追い求めていた。でも、この織機は教えてくれている。新しさは、古いものの中に常に宿っているのだと。


 手元の糸籠から、月詠みの花で染めた糸を取り出す。その瞬間、糸が淡く輝いた。


「織らせて」


 エマの声は、祈りのように静かだった。


 織機が応えるように、もう一度音を立てる。今度は温かな、優しい響き。エマは糸を通し始めた。


 白い雪が降り続ける外の世界。暖炉の火が照らす工房の中で、エマと織機の対話が始まった。


 織り目一つ一つに、これまでの記憶が溶け込んでいく。前世の痛み。現世での出会い。そして、これから紡がれていく物語。


「ありがとう」


 夜が明けるころ、一枚の布が完成していた。それは、古い記憶と新しい想いが溶け合った、不思議な輝きを持つ作品だった。


 エマは布を優しく撫でた。織機は満ち足りたように、静かな音を響かせている。


 窓の外では雪が上がり、朝日が差し始めていた。新しい一日の始まりを告げるように、遠くで鐘の音が鳴る。


 エマは織機に寄り添うように座り、朝の光を浴びる布を見つめた。物作りの本質は、きっとこの静けさの中にあるのだと悟った朝だった。


 古い織機は、またいつもの佇まいに戻っている。でも、確かにそこには魂が宿っていた。エマは微笑んで立ち上がり、新しい一日の準備を始めた。工房に満ちる朝の光の中で、織機は穏やかな存在感を放っていた。


 エマは出来上がった布を広げ、窓辺の椅子に腰かけた。織機との不思議な対話を思い返す。


「前世では、どうしてこれが聞こえなかったのだろう……」


 つぶやきが、静かな空気の中に溶けていく。前世の記憶が、波のように寄せては返す。


 紫京院英恵として生きていた日々。締め切りに追われ、新しい表現を求め、常に前だけを見つめていた。たくさんの機材に囲まれ、最新の技術を駆使して作品を生み出していた。充実感はあった。そして同時に虚しさもあった。


 きっとその時の自分は何も聞いていなかったのだ。機材の囁きも、

 素材の声も、道具たちの想いも。


「私はずっと、独り言を続けていただけだったのかもしれない」


 エマは窓の外に目を向けた。降り止んだ雪が朝日に輝き、まるで大地が光を放っているかのよう。


「私は一方的に話していただけで、あの子たちの声を聞いていなかった」


 その気づきは、白く冷たい雪のように清々しかった。前世では、自分の想いを伝えることばかりに必死で、誰かの、何かの声を聞くことを忘れていた。


 エマは立ち上がり、もう一度織機に手を触れた。ざらついた木肌の感触。年輪のような時の痕跡。使い込まれて磨かれた部分の滑らかさ。


「今の私には、なぜ聞こえるのだろう?」


 問いかけた瞬間、不思議な温もりが手のひらに伝わった。まるで織機が答えてくれているかのように。


 そして、エマは気づいた。


「ああ、そうだわ。『祝福の雫』は、単に扉を開けてくれただけなのかもしれない」


 声を聞く力は、きっと誰もが持っているもの。ただ、忙しさに紛れて、焦りに押されて、その扉を閉ざしてしまっているだけ。


「そうだったのね……」


 エマはそっと微笑んだ。織機が柔らかな音を立てる。今度は慈しむような、温かな響き。


「これからは、もっとゆっくり。もっと、心を開いて」


 朝日が織機を照らし、長い影を床に落とす。その影が、まるで優しく手を差し伸べているかのように見えた。


 エマは深くうなずいた。前世で失っていたものは、実は決して失われてはいなかった。ただ、立ち止まって、耳を澄ませることを忘れていただけ。


「ありがとう」


 織機に向かって声をかけると、柔らかな木の音が返ってきた。それは新しい対話の始まりを告げる音色だった。

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