第六十三章 雨垂れの朝
長雨は三日目を迎えていた。エマは窓辺に立ち、雨樋から落ちる雫を見つめている。規則正しく落ちる水滴が、石畳に小さな輪を描いていく。
「ポツ、ポツ、ポツ……」
その音が、どこか懐かしい。前世で作曲をしていた頃、深夜のアパートで聴いた雨音に似ている。
エマは織機に向かい、ゆっくりと手を動かし始めた。霧雨のような細かな織目から、やがて本降りの雨のような太い糸へ。織機が奏でるリズムは、まるで雨音の調べのようだ。
「おや、エマ、こんな朝早くから」
マリーお婆さんが、薬草の香る蒸しタオルを持って訪れた。
「この音が、私を呼んでいる感じがするんです」
エマの手は止まらない。祝福の雫が、雨のように糸を伝って流れていく。
「懐かしい音なのね」
マリーは静かにうなずいた。工房の空気が、しっとりと湿っている。
エマの織る布には、透明な雫が宿り始めていた。それは現世でしか見られない「祝福の雫」の結晶。
「素晴らしい布だわ……」
マリーの言葉に、エマは微笑んだ。
織機を動かす手が、少しずつリズムを変える。かつての切迫した雨音から、今聴こえる穏やかな雨垂れの音色へ。布には二つの雨音が、波紋のように広がっていく。
「見えてきたんです。あの頃の痛みも、今の安らぎも、すべては同じ雨の中にあったんだって」
エマの指先から、小さな光が零れ落ちる。それは「職人の祝福」が具現化した形だった。
時が静かに流れていく。雨樋を伝う雫の音。織機の軋む音。エマの呼吸。すべてが一つの調べとなって、工房に満ちていく。
(あの日の雨も、きっとこんな風に私を癒やしてくれていたのね……目の前の忙しさに気を取られて、私がそれに気づけなかっただけ……)
布には透明な雫の模様が浮かび上がり、そこに七色の光が宿り始めた。前世の記憶と現世の祝福が、一枚の布の中で静かに溶け合っている。
「エマ、この布は……」
「ええ。『雨音の癒し』と名付けようと思います」
完成した布には、二つの世界の雨音が織り込まれていた。見る者の心に、深い安らぎをもたらす不思議な力を持つ布。それは、エマの魂の軌跡そのものだった。
長雨は優しく続いている。エマは窓辺に立ち、静かに目を閉じた。雨樋を伝う雫の音が、今日も優しく響いていた。




