第五十八章 朝露の智慧
夜明け前の静寂が、光の谷を包み込んでいた。エマは普段より早く目を覚まし、窓の外を見つめていた。月詠みの花が、まだ暗い空の下でかすかに光を放っている。
「まだ眠れないのかい?」
階下から、マリーお婆さんの声が聞こえてきた。エマは驚いて振り返る。お婆さんは、いつの間にか工房の入り口に立っていた。
「マリーおばあちゃん、こんな早くに……」
「今日は特別な朝よ。さあ、私と一緒に来なさい」
マリーお婆さんは、そう言うと庭へと歩き出した。エマは急いで上着を羽織り、後を追う。
庭には、まだ夜の名残りの露が宿っていた。月詠みの花は、その露を纏って神秘的な輝きを放っている。
「見えるかしら? 朝露には、一日の始まりの力が宿るのよ」
マリーお婆さんの言葉に、エマは目を凝らして露を見つめた。すると、それぞれの露が微かに異なる色を帯びて輝いているのが分かる。
「不思議……! 露の色が、少しずつ違います」
「そう、よく気づいたわね。植物たちは、それぞれの時間に最も適した力を持つの。その力を理解することが、真の癒しへの第一歩よ」
そのとき、村の入り口から人影が近づいてきた。羊飼いのクララが、青ざめた顔で歩いてくる。
「エマさん、マリーおばあちゃん、おはようございます。実は、相談があって……」
クララは体調を崩していた。ここ数日、眠れない日が続き、食事ものどを通らないという。エマはクララの様子をしっかりと観察した。
「クララ、少し休んでいきなさい」
マリーお婆さんはそう言うと、エマに目配せをした。
「エマ、今日は特別な織物を教えるわ。朝露の力を織り込む技よ」
エマは月詠みの花から滴る露を、特別な方法で集め始めた。マリーお婆さんの指導の下、露を受ける布の織り方も変えていく。太陽が昇るにつれ、布は淡い光を帯び始めた。
「織物には、時の力が宿るの。特に、夜明けの時間は、新しい始まりの力に満ちている」
エマは集中して織り進めた。布に触れるたびに、心が澄んでいくような感覚がある。今まではこんな繊細な感覚に気付くことはなかった。
昼過ぎ、クララが目を覚ました。
「不思議です。体が軽くなって、心も落ち着いてきました」
エマが織った布を纏ったクララの顔色は、見違えるように良くなっていた。
「人の体は自然の一部なの。だから、自然の力を理解することが、癒しの基本になるのよ」
マリーお婆さんの言葉に、エマは深くうなずいた。
その日から、エマは早朝の時間を大切にするようになった。朝露を集め、日の出とともに織物を始める。そうすることで、布に宿る力が強くなることを発見したのだ。
月が満ちていく頃、エマの工房に新たな来訪者があった。隣村から、不眠に悩む若い農夫が訪ねてきたのだ。
「妹から、この村に不思議な織物があると聞いて……」
エマは早速、朝露の布を織り始めた。しかし今回は、農夫の体質に合わせて織り方を微調整する必要があった。
「人それぞれに、合う織り方があるのね」
マリーお婆さんは満足げにうなずいた。
「そう、気付いたのね。これが朝露の智慧よ。一人一人に最適な調和があることを教えてくれる」
エマは織物を完成させながら、前世での制作活動を思い出していた。あの頃は、ただ美しいものを作ることだけを考えていた。しかし今は違う。作品が誰かの心と体を癒すことを願いながら織っている。
布が完成すると、そこには朝露のように透明な輝きが宿っていた。農夫がその布に触れた瞬間、彼の硬く凝りついた表情が柔らかくなった。
「不思議です。心が落ち着いてきます」
それから数日後、農夫は再び工房を訪れた。眠りの質が改善され、朝の目覚めが爽やかになったという報告だった。
「エマ、あなたは大切なことを学んだわ。朝露が教えてくれた智慧を、これからも大切にしていくのよ」
マリーお婆さんの言葉に、エマは静かにうなずいた。窓の外では、新しい朝が始まろうとしていた。月詠みの花が、まだ見ぬ誰かの癒しのために、静かに輝きを増していく。
朝露の智慧は、エマに新たな創作の道を示していた。それは、自然と人との調和を紡ぎ出す、光の谷ならではの技だった。エマは織機に向かいながら、次の朝を待つ心に、確かな希望を感じていた。




