第五十五章 風の囁き手
●「風の子」
早春の嵐が光の谷を襲った翌朝、エマは工房の裏庭で一羽の青い鳥を見つけた。羽を痛めた鳥は、まるで誰かを待っているかのように、月詠みの花の根元でじっとしていた。
「大丈夫?」
エマが声をかけると、鳥は穏やかな目でエマを見つめ返した。
その時、風が不思議な旋律を奏で始めた。まるで誰かの歌声のように、優しく、しかし確かな意思を持って響いてくる。
「風が……歌ってる?」
「ええ、風は今、その子を安心させようとしているのよ」
突然の声に振り返ると、そこには見たことのない少女が立っていた。薄紫色の髪を風に揺らし、素足で立つ少女は、まるで風そのもののような存在感を放っていた。
「私はフウカ。風と話すのが好きなの」
少女は自然な仕草で青い鳥に近づき、その傷に触れた。すると不思議なことに、風が渦を巻くように鳥の周りを舞い、傷が少しずつ癒えていく。
エマは目を見張った。これまで見たことのない「祝福の雫」の使い方だった。
●「風の記憶」
フウカは、エマの工房に居候することになった。マリーお婆さんは、「風の子」と呼ばれる存在について語ってくれた。彼らは風と対話する力を持ち、自然の深い知恵を理解する存在なのだという。
ある夜、月詠みの花が満開の下、フウカは風と踊り始めた。
「風は、すべての記憶を運んでいるの」
フウカの踊りに合わせて、風が不思議な光の粒子となって舞い始めた。それは遠い土地の風景や、かつての時代の記憶のようだった。
「エマさん、一緒に踊りましょう?」
戸惑いながらもフウカの手を取ったエマは、風の中で踊ることで、新しい感覚に目覚めていった。それは糸を紡ぐ時の感覚に似ていて、しかし何か根源的なものを感じさせた。
●「風の織物」
エマとフウカは「風の織物」を作ることを思いついた。フウカが風と対話し、エマが織りの技を用いる。二人の力を組み合わせることで、風の記憶そのものを織り込もうというのだ。
しかし、最初の試みは失敗だった。風は形のないもの。それを形あるものに変えることの難しさを、エマは痛感した。
「私たちが目指すのは、風を閉じ込めることじゃないの」
フウカの言葉は、エマの心に深く響いた。
「風は自由でなければいけない。でも、風の持つ『何か』を布に宿すことはできるはず……」
エマは考え始めた。前世での経験と、光の谷で学んだことを結びつけながら。
●第四節「風の導き」
試行錯誤の日々が続いた。ある日、エマは織機の前で深い気づきを得た。
「風は形がないけれど、風の中には光の谷の『すべて』が含まれているのね」
月詠みの花の香り、羊たちの温もり、大地の鼓動、人々の想い。風はそのすべてを運んでいた。
フウカは静かに頷いた。
「やっと分かってくれたのね。風は決して一つのものじゃない。でも、すべては風の中で一つになっている」
●「風の囁き」
新しい織物が少しずつ形になっていった。エマが織る度に、フウカは風と対話し、風の記憶を一緒に織り込んでいく。
布に触れた人々は、それぞれ異なる何かを感じ取った。ある人は懐かしい香りを、またある人は遠い記憶を、そして誰もが深い安らぎを覚えた。
「風は人の心も運ぶのね」
「ええ、だから私たちの織物は、心と心を繋ぐ橋になれるの」
●「永遠の風」
完成した「風の織物」は、光の谷に新しい伝説を生み出した。布は風のように自由で、しかし確かな導きを持っていた。触れる者の心に、その人だけの風の記憶を呼び起こす力を持っていた。
旅立ちの前夜、フウカは月詠みの花の下でエマと過ごしていた。夜風が二人の髪を優しく揺らす。
「そういえば、この前不思議な人と出会ったの」
フウカの声は、どこか懐かしそうな響きを帯びていた。
「北の方で見かけたの。風を操る術士だったわ。でも普通の術士とは違って、風に寄り添うような……まるで風の友達みたいな人」
エマの胸が小さく震えた。
「その人は、光の谷のことを知っていて、『月詠みの花が咲く場所で、そこには大切な人がいる』って、風に語りかけるように呟いていたわ」
フウカは空を見上げ、微笑んだ。その表情は、何か大切な秘密を覗き見てしまった子供のようだった。
エマは黙って月を見つめた。胸の奥で、懐かしい風の記憶が揺れる。それは、あの人の背中を見送った日の風の匂いに、どこか似ていた。
「きっと、風は二つの想いを運んでいるのね」
フウカの言葉は、夜風に溶けるように消えていった。
「私も風のように、次の場所へ行かなければいけないの」
別れの朝、工房の前で、フウカは最後の踊りを披露した。風が光の粒子となって舞い、フウカの姿は次第に風の中に溶けていった。
残されたのは一枚の羽根。それは、あの日出会った青い鳥の羽根だった。エマはその羽根を、織機の傍らに飾った。
「風の中で、みんな繋がっているのね」
エマはフウカから学んだことを胸に、新しい織物を織り始めた。風は今日も、誰かの物語を運んでくる。
工房の窓から差し込む光の中で、月詠みの花が静かに揺れていた。その姿は、まるでフウカの最後の踊りのようだった。




