第五十四章「水面の調べ」
春の終わりを告げる風が、光の谷を優しく撫でていった。エマの工房の裏庭に、小さな湧き水が姿を見せ始めたのは、そんなある朝のことだった。
「不思議ね……」
エマは膝をつき、透明な水が大地から湧き出す様子を見つめた。月詠みの花の根元から、静かに、けれど確かな力強さを持って水は流れ出ていた。
清らかな水は、やがて小さな窪地に溜まり始め、自然の池を作り出していった。水面は鏡のように空を映し、風が吹くたびに光が踊った。
マリーお婆さんがその池を見に来たのは、それから三日後のことだった。
「まあ、懐かしい! この池は『万物の記憶』を映す鏡よ」
「万物の記憶……?」
「そう、水面に映るのは、今この場所にあるものだけじゃない。過去に在ったもの、これから在るものも、時として映し出すの」
エマは水面を覗き込んだ。最初は普通の反射像しか見えなかったが、やがて不思議な光景が浮かび上がってきた。まるで誰かの記憶を覗き見るように、かつてこの地にあった古い工房の姿が水面に揺らめいていた。
「これは……」
「そう、百年前の光の谷よ。あの頃は、もっと多くの職人たちが暮らしていたの」
水面に映る光景は、エマの心に深い共鳴を呼び起こした。前世でもこんな風に、誰かの作品に心を奪われることがあった。けれど、その時は相手の技を超えることばかりを考えていた。
エマは静かに立ち上がると、工房へと戻っていった。水面に映った風景を織物に織り込もうという思いが、突然湧き上がってきたのだ。
しかし、それは予想以上に難しい挑戦となった。水面に映る景色は常に揺らぎ、変化し、時には全く異なる時代の姿を映し出す。一つの形に留めることは、ほとんど不可能に思えた。
「どうしたの?」
フラストレーションを感じていたエマに、マリーお婆さんが優しく声をかけた。
「水面の風景を織物に表現しようとしているんです。でも……うまくいきません」
「それはそうね。水面は常に変化するもの。変化そのものを織り込まなければいけないのかもしれないわ」
その言葉は、エマの心に新しい視点を開いた。
翌朝、エマは再び池の傍らに座った。今度は織物のことは考えず、ただ水面を見つめることにした。すると不思議なことに、水面に映った自分の姿が、前世の姿と重なって見えた瞬間があった。
「私は……私なのに、私じゃない?」
その時、エマは深い理解に到達した。水面に映るものは、すべて一つの大きな流れの中にあるのだと。分かれているように見えて、実は繋がっている。変化しているように見えて、本質は変わらない。
エマは工房に戻ると、新しい織り方を試み始めた。通常の織り方では表現できない、流動的な模様を作り出すため、「祝福の雫」を織り込む位置を微妙にずらしていった。
できあがった布は、見る角度によって異なる風景を映し出すような不思議な効果を持っていた。それは単なる模様ではなく、まるで水面のように光を受け止め、反射し、時には思いもよらない景色を映し出した。
「素晴らしいわ」
マリーお婆さんは、完成した布を手に取りながら微笑んだ。
「この布には、変化と永遠が同時に織り込まれているのね」
エマは静かに頷いた。水面の揺らぎは、彼女に大切な真実を教えてくれた。すべては流れ、変化し、そして永遠につながっている。その理解は、新たな創作の扉を開いたのだった。
それから数日後、噂を聞きつけた村人たちが次々とエマの工房を訪れるようになった。水面の織物は、見る者の心に深い平安をもたらした。それは、すべてが一つの大きな流れの中にあることを、無言のうちに伝えていたからだ。
エマは池の傍らに小さな休憩所を作った。そこで人々は、水面に映る不思議な風景を眺めながら、心を癒すことができた。光の谷に新たな憩いの場所が生まれたのだった。




