第五十二章「夜明けの音色」
真冬の夜半、エマは不思議な音色で目を覚ました。それは弦楽器のような、風のような、どこか懐かしい響き。工房の天井裏から、かすかに漏れ落ちてくる。
月明かりだけを頼りに、エマはゆっくりと屋根裏への梯子を上っていく。埃っぽい空気が、冷たく澄んでいた。
「この音は……」
奥まった隅に、古びたヴァイオリンが一つ。月の光を受けて、柔らかな輝きを放っている。
エマは息を呑んだ。前世で自分が演奏していた楽器と、どこか似ている。手に取ると、不思議な温もりが伝わってきた。
「ねえ、あなたを弾いていたのは誰?」
問いかけるように弦を軽く弾くと、切なく美しい音が響いた。その瞬間、エマの心に前世の記憶が蘇る。締切に追われ、疲れ果てた夜更けに、一人でヴァイオリンを弾いていた日々。
マリーお婆さんは、いつものように早朝から庭仕事をしていた。エマが古いヴァイオリンを抱えて訪ねてきたとき、不思議そうな表情を見せる。
「まあ、それは……」
「これの持ち主を、ご存知ですか?」
マリーは深いため息をついた。
「ローザのヴァイオリンね。五十年前、この村一番の織り手だった娘さ。でも彼女は、最後の作品を織り上げる前に、この世を去ってしまった」
エマの胸が締め付けられる。どこか自分の前世と重なるような運命。
「でも不思議ね。そのヴァイオリン、もう誰も音が出せないはずなんだけど……」
エマは静かにヴァイオリンを構えた。弓を持つ手が、かすかに震える。
最初の音が響いた瞬間、工房に不思議な光が満ちていく。まるで音が目に見える色を持っているかのよう。それは織物の模様となって、空中に浮かび上がった。
「これは……!」
「ローザの未完の作品の模様ね」
マリーの声が、深い感動を湛えている。
「彼女は最期まで、音と織物の融合を追い求めていたの」
エマは演奏を続けながら、目を閉じた。音の中に、確かな意思が感じられる。完成への願い、そして新しい命へと繋がる希望。
朝日が昇り始めた頃、エマは織機に向かっていた。ヴァイオリンは傍らに置かれ、静かに光を放っている。
音が織りなす模様を、一つ一つ丁寧に布に写していく。それは決して華やかな模様ではない。けれど、魂の深い共鳴を感じさせる静謐な美しさがあった。
「ローザさん、見ていてください」
エマの指先が、優しく糸を紡いでいく。前世の記憶と、現世での学び。二つの魂が、一つの作品の中で溶け合っていく。
日が高くなった頃、マリーが再び訪ねてきた。
「エマ、その織物……」
「はい。ローザさんの想いと、私の想いが、一つになったんです」
出来上がった布には、音色そのものが織り込まれているかのよう。光に透かすと、かすかな旋律が聞こえてくるような錯覚さえ覚える。
「不思議ね」
マリーが、深い感慨を込めて言った。
「終わりだと思っていたものが、新しい始まりになるなんて」
エマは静かに頷いた。すべては繋がっている。終わりと始まり。過去と未来。魂と魂。
ヴァイオリンが、最後の光を放って消えていった。でも、その音色は確かに布の中に生き続けている。
朝の光が工房いっぱいに差し込み、新しい一日の始まりを告げていた。エマの銀髪が、まるで光の糸のように輝いている。
それは魂の目覚めを祝福する、優しい夜明けの音色だった。




