第四十九章「月影の贈り物」
冬の朝の空気が、エマの頬を優しく撫でていた。裏庭のハーブたちは、まだ朝露に濡れている。
「さて、今日も一日……」
そう呟いた時、エマは小さな影に気が付いた。月詠みの花の茂みの中で、銀色の毛並みを持つ子猫が震えていたのだ。
「まあ、こんな所で……!」
エマが近づくと、子猫は警戒するどころか、すぐにエマの手に擦り寄ってきた。その仕草には、どこか人懐っこさを超えた親しみが感じられた。
「おなかが空いているのね」
工房に子猫を連れ帰り、温かいミルクを与えた。子猫は上品な仕草で、ゆっくりとミルクを飲んでいく。その姿は、まるで貴族の子女のようだった。
「変わった子ね……」
エマが呟くと、子猫は不思議そうに首を傾げた。その瞳には、ただの動物とは思えない知性が宿っている。
その日から、銀色の子猫はエマの工房で暮らすようになった。エマは「ムーン」と名付けた。月のように輝く毛並みと、その神秘的な雰囲気にちなんで。
ムーンは、他の猫とは明らかに違っていた。エマが機織りをしていると、じっと観察するように見つめ、時には布地に触れようとする。そして何より不思議なのは、月詠みの花との親和性だった。
「まるで、祝福の雫が見えているみたい」
エマがそう感じていた矢先、満月の夜が訪れた。
月光が工房に差し込む中、エマは織機に向かっていた。すると背後で、かすかな光が揺らめくのが見えた。
「エマさん……お話、させてください」
振り返ると、そこには銀色の髪を持つ少女が立っていた。十五、六歳ほどの年齢に見える。着物は古めかしい様式で、百年ほど前のものだ。
「ムーン……なの?」
「はい。私の本当の名は、月詠みのアリア。かつてこの村で、工芸の道を究めようとした者です」
アリアの声は、まるで月光のように清らかだった。その姿は実体を持ちながら、どこか透明感があり、月の光を通しているようにも見える。
「私は、技を極めることだけに囚われ、若くして命を落としました。でも、エマさんとの出会いで、もう一度チャンスを頂けたように思うのです」
エマの胸が、強く締め付けられた。前世の自分も、同じように技術の追求に命を削った。その結末を知っている分、アリアの言葉が痛いほど胸に響く。
「アリアさん……私も、似たような経験があります」
エマは、前世の記憶を静かに語り始めた。完璧を求めて自分を追い詰めた日々。締切に追われ、夜を徹して作品を作り続けた時間。そして、その果てにやってきた終わり。
月光の中で、二人の想いが重なり合うように響き合う。
「私たちは、同じ過ちを繰り返したのですね」
アリアの瞳に、かすかな涙が光った。
「でも、エマさんは新しい人生をもらえた。私は……こうして猫の姿で、ただ見守ることしかできません」
その言葉に、エマは強く首を振った。
「違います! アリアさんも、きっと新しい可能性があるはず。だって、私たちは出会えたんですから」
エマの言葉に、工房の空気が微かに震えた。月詠みの花が、これまでにない輝きを放ち始める。
「アリアさん、一緒に作品を作りませんか?」
「え……?」
「昼は猫の姿でも、満月の夜は人の姿になれる。その時間を使って、二人で新しい技を探求していきましょう」
アリアの顔に、かすかな希望の光が差す。
「でも、私のような者が……」
「大丈夫です。今度は、命を大切にしながら。技術と心の調和を、一緒に見つけていきましょう」
その夜から、エマとアリアの新しい挑戦が始まった。満月の夜だけの限られた時間。その中で二人は、技術を極めながらも命を大切にする方法を模索していく。
アリアは猫の姿の時も、エマの作業を熱心に見守った。その目には、かつての執着ではなく、温かな理解の光が宿っている。時には、エマが行き詰まった時に、さりげなくヒントをくれることもある。
「ねえ、エマさん」
ある満月の夜、アリアが静かに語りかけた。
「私、少しずつ分かってきたんです。技を極めることは、決して自分を追い詰めることではないって」
アリアの手の中で、月の光が糸のように輝いている。
「本当の極みは、命と技が調和する場所にある。そのことに、エマさんとの日々で気付かされました」
エマは、アリアの言葉に深く頷いた。自分も同じ気付きを得ていたのだ。
それから程なくして、アリアの姿が次第に透明になっていく満月の夜が来た。
「エマさん、私の時間が来たようです」
「アリアさん……!」
「もう大丈夫です。私は、本当に大切なものを見つけることができました」
アリアの微笑みには、もう迷いの色はなかった。
「これからは、新しい工芸の守り手として、この谷を見守っていきます。エマさんのように、技と命の調和を求める人たちを」
月光の中で、アリアの姿が星屑のように輝きながら消えていく。後には、一輪の銀色の花が残された。それは、月詠みの花の新しい品種のように見えた。
エマは、その花を大切に植え替えた。それは「アリアの光」と名付けられ、工芸の道を志す者たちに、真の技の意味を問いかける花となった。
春の風が、エマの銀髪をそっと撫でていく。工房の窓辺で、新しい花が静かに輝いていた。それは、技と命の調和を求めた二人の魂の証なのかもしれない。




