第四十八章「月光の踊り子」
満月の夜、工房の窓から差し込む銀色の光が、エマの織機を静かに照らしていた。深夜まで作業を続けていたエマは、ふと目の前の布地から顔を上げ、月を見上げる。前世では、こんな風に月を眺める余裕すらなかった。
カタン……という不思議な音が、静寂を破った。
「誰かいるの?」
返事はない。代わりに、月の光が一点に集まり始め、人の形を成していく。エマは息を呑んだ。そこには一人の少女が立っていた。透き通るような白い肌に、月光を織り込んだような銀色の衣装。その姿は現実とも幻ともつかない儚さを湛えている。
少女は静かに、踊り始めた。腕が風のように流れ、裾が波のように揺れる。その動きには言葉にならない物語が込められているように見える。
エマの心に、不思議な感覚が広がっていく。踊りの一つ一つの動作が、まるで誰かの記憶の断片のように映り始める。遠い国の街並み、石畳の広場、噴水のきらめき……。そして、何かを失った深い悲しみ。
「あなたの故郷なの?」
踊り子は踊りの中で小さく頷いた。その仕草には深い孤独が滲んでいる。
エマは織機に向かい、糸を通し始めた。月詠みの花から抽出した染料で染めた糸が、月光に輝いている。
「私にも分かるの。大切なものを失うということが」
織機を踏む音が、踊り子の足音と重なり合う。エマの手が、踊りの動きを追うように動いていく。前世での記憶、この世界での暮らし、そして目の前で踊る少女の物語。それらが全て、布の中に溶け込んでいくような感覚。
「見て、あなたの踊りが形になっていく……」
布地の上に、不思議な模様が浮かび上がっていく。遠い街の風景、月明かりの下で踊る少女の姿、そして深い郷愁。それらが全て、光の谷の祝福と溶け合い、新しい物語を紡ぎ出していく。
夜が更けていくにつれ、踊り子の動きに変化が現れ始めた。最初の切なさを帯びた踊りから、次第に希望の光を宿したような踊りへと変わっていく。
エマは気付いていた。この踊り子は、自分と同じなのだと。故郷を失い、新しい場所で生きていこうとする魂の揺らぎを、身をもって知っている。
「ねえ、この布を見て」
エマは織り上がった布を広げた。そこには踊り子の故郷の風景が、光の谷の祝福に包まれるように織り込まれている。失われた記憶は、決して消え去るものではなく、新しい希望と共に生き続けられることを、布は静かに語りかけているようだった。
踊り子の動きが止まる。月の光に透けるような瞳に、小さな涙が光った。
「これがあなたからの贈り物なの?」
エマの問いかけに、踊り子は初めて、かすかな声で応えた。
「ありがとう……私の想いを、形にしてくれて」
その声は、まるで風のささやきのよう。
「私たちは、きっと似ているのね。でも、これからは違う道を歩んでいく」
エマの言葉に、踊り子は優しく微笑んだ。その表情には、もう迷いはない。
月が西に傾き始めた頃、踊り子の姿が次第に透明になっていく。最後に残したのは、小さな水晶のかけら。それは、故郷の噴水に散り落ちた月の光のようだった。
夜明けの光が差し込み始めた工房に、エマは一人佇んでいる。織り上がった布と水晶のかけらが、確かにこの夜の出来事が夢ではなかったことを物語っていた。
エマは静かに微笑んだ。人は誰しも、失ったものを抱えて生きている。でも、その想いを形にすることで、新しい希望も見えてくる。それは、工芸という営みが持つ、大切な力なのかもしれない。
朝もやの中、エマの工房の窓辺で、月光の布が静かに揺れていた。




