第四十七章「時の調べ」
冬の夜明け前、エマの工房に不思議な音色が響き始めた。カラン、コロン、カタ……。それは古びた織機から奏でられる、懐かしくも新しい音。
エマは作業の手を止め、耳を澄ませた。前世では決して聞くことのなかった、魂に響く音色。まるで時の流れそのものが、織機を通して語りかけてくるかのようだった。
「この音……どこか、懐かしい」
窓の外では、まだ星が瞬いている。冬の澄んだ空気が、音をより鮮明に伝えてくる。
「エマ、もう起きていたのね」
マリーお婆さんが、いつもより早い時間に工房を訪れた。
「マリーお婆さん、この織機の音が……」
「ええ、私にも聞こえるわ。時の調べと呼ばれる現象よ」
マリーは、古い織機にそっと手を触れた。
「百年に一度、織物に込められた想いが音となって現れるの。あなたの工房に残されたこの織機には、代々の職人の魂が宿っているのかもしれないわ」
エマは、織機の前に座った。その瞬間、不思議な感覚が全身を包み込む。まるで誰かの手が、優しく自分の手を導くかのように。
「この感覚……まるで……」
「時を超えた対話が始まったのね」
マリーの言葉が、工房の空気に溶けていく。
織機から奏でられる音色は、次第に明確なリズムを持ち始めた。カラン、コロン、カタン……。それは単なる機械音ではなく、まるで誰かの心臓の鼓動のように生き生きとしていた。
「エマ、目を閉じてごらんなさい」
マリーの声に導かれ、エマはゆっくりと瞼を閉じた。すると、これまでにない鮮明な映像が心の中に浮かび上がってきた。
春の陽射しの中で布を織る若い娘。夏の夕暮れに染料を調合する職人。秋の収穫を祝う祭りの装飾を作る家族。冬の月明かりの下で糸を紡ぐ老女。
「これは……」
「そう、この織機が見てきた光の谷の記憶よ」
エマの心に、深い感動が広がっていく。前世では、過去など気にも留めず、ただ前へ前へと突き進んでいた。でも、この瞬間に見える光景は、確かな重みを持って心に迫ってくる。
「でも、どうして私に……?」
「あなたの中に、時を受け止める準備が整ったのでしょう」
マリーは、窓の外を見つめながら静かに続けた。
「私たちの営みは、決して一瞬で消えてしまうものではないの。むしろ、次の世代へと確実に受け継がれていく。それは形のある技術だけでなく、形のない想いも同じよ」
エマは、自分の手のひらを見つめた。そこには前世からの記憶と、現世での経験が溶け合っている。
「時は流れるものでありながら、同時にすべては今この瞬間にある……そういうことでしょうか?」
マリーは、深い理解を示すように頷いた。
「その通りよ。だからこそ、私たちは焦る必要もないし、過去に執着する必要もない。すべては、今この瞬間の中に生きているのだから」
朝日が昇り始め、その光が工房に差し込んでくる。織機の音色は、さらに豊かな響きを帯びていった。
光と影が織りなす朝の工房で、エマは織機に向かって静かに語りかけた。
「教えてください。私に伝えたいことがあるのでしょう?」
すると織機の音色が変化し、これまでにない澄んだ響きを放ち始めた。その音は、まるで時の流れそのものが結晶化したかのよう。
「まあ……」
マリーが息を呑む。織機から放たれる光が、虹色の糸となって空中に浮かび上がったのだ。
「エマ、見なさい。時の糸が形になろうとしている」
虹色の糸は、エマの周りをゆっくりと舞い始めた。その動きに合わせ、工房の空気が不思議な密度を帯びていく。
「この糸で、織ってみなさい」
マリーの言葉に導かれ、エマは織機に向かった。手を伸ばすと、虹色の糸が自然と指先に絡みついてくる。
「温かい……」
それは触れたことのない、生命の鼓動のような温もり。エマは目を閉じ、その感触に身を委ねた。
すると、これまでになかった感覚が全身を包み込んだ。前世での苦しみも、現世での戸惑いも、すべてが織物の一部となっていくような。それは決して消え去るのではなく、新しい模様として織り込まれていく。
「あら……エマ、あなた輝いている」
マリーの声に、エマは目を開けた。自分の体が、かすかな光を放っているのが分かる。それは前世から引きずっていた重たい想いが、少しずつ解放されていく証のようだった。
エマの手が織機を動かすたび、工房の中に鈴のような音色が広がる。それは悲しみでも喜びでもない、すべてを包み込むような清らかな響き。
「面白いわ、エマ」
マリーがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたの織る布には、これまでの記憶がすべて溶け合っているわ。そして見事な調和を生んでいる」
エマは、織り進める布を見つめた。そこには確かに、自分の中にある二つの時が織り込まれていた。しかし不思議なことに、もはやそれらは葛藤を生むものではない。
「まるで……すべてが今このときのために在ったかのようです」
エマの言葉に、織機が共鳴するように音を奏でる。
「そうよ。過去も未来も、結局は今この瞬間の中にある。だから執着する必要もないし、焦る必要もない」
マリーの言葉が、エマの心に深く沁みていく。
時計塔から朝の鐘が鳴り、その音が工房に差し込む朝日とともに響き渡る。エマは、自分の内側に確かな変化が起きているのを感じていた。それは重たい鎧を脱ぎ捨てるような、しかし同時に新しい強さを身にまとうような感覚。
「私、やっと分かった気がします」
エマの声が、静かな確信に満ちている。
「すべては、今この瞬間の中にある。だから……」
織機から響く音色が、エマの言葉に呼応するように変化していく。それは次第に、村全体の音や息遣いと溶け合っていくよう。朝の準備を始める村人たちの足音、パンを焼く匂いとともに漂う話し声、畑に向かう農具の音。
「私たちは、決して一人じゃない」
エマは、織り続けながら語る。
「時の中で、すべてはつながっている。過去も未来も、今を生きる私たちも」
窓から差し込む朝日が、エマの織る布を照らした。そこには虹色の糸が、まるで生命の樹のような模様を描いている。根は深く大地に、枝は高く空に伸び、その幹には無数の輪があった。
「まあ……」
マリーが、感嘆の声を上げる。
「エマ、それは『時の樹』! 古い伝説にある、すべての時を結ぶという神聖な模様」
エマの手が、一瞬止まる。この模様は、確かに自分の意識で織ったものではない。それは、時そのものが自らを表現したかのよう。
「不思議ですね」
エマは、布に手を触れた。
「この模様を織りながら、私の中の重たかったものが、すっと軽くなっていく」
実際、エマの表情には、これまでにない清々しさが宿っていた。前世への執着も、現世での迷いも、すべてがこの布の中に溶け込み、新しい調和となっている。
「そうよ」
マリーは、満足げに頷いた。
「人は皆、自分の時を織りながら生きているの。それが上手く織れなくても、乱れてしまっても、それもまたひとつの模様になる」
マリーの言葉に、エマの心が静かに揺れた。自分は前世で、完璧な模様だけを求めすぎていたのかもしれない。
カラン、コロン、カタ……。
織機の音が、より深い響きを帯びていく。エマの手元で、虹色の糸が新たな輝きを放ち始めた。
「ほら、見えるでしょう?」
マリーが、布の中心を指さす。
「樹の幹に、小さな芽が出始めている」
確かに、時の樹の幹から、新しい枝が伸び始めていた。それは未来に向かって伸びていく、希望の芽のよう。
「エマ、あなたの中で何かが目覚めたのね」
マリーの言葉に、エマは静かに頷いた。
「はい。これまで私は、時間に追われ、時間を追いかけてばかりいました。でも今は違う」
エマは、織機に優しく手を置いた。
「時は、私たちの内側にもあるんですね。だから焦る必要も、執着する必要もない」
朝日が工房いっぱいに差し込み、時の樹を織った布が黄金色に輝く。その光は、エマの銀色の髪も、優しく照らしていた。
「これは、過ぎた時への想いも、これから流れる時への期待も、すべて包み込む光なのね」
マリーの言葉に、エマは心の奥で何かが解き放たれるのを感じた。
窓の外では、村が朝の営みを始めている。パン屋の煙突から立ち上る煙、市場に向かう人々の足音、子供たちの話し声。それらすべての音が、織機の奏でる調べと美しい和音を織りなしていく。
「ねえ、マリーお婆さん」
エマは、ふと思い出したように言った。
「私、ようやく分かったんです。これまでの経験も、この世界での新しい学びも、すべては今の私を作るための大切な糸だったんだって」
その時、織機から最後の音色が響き、虹色の糸が静かに消えていった。残されたのは、一枚の織物。時の樹の模様は、生命力に満ちた輝きを放っている。
「さて、この布をどうするつもり?」
「はい」
エマは、迷いのない表情で答えた。
「聖ルチア教会に奉納しようと思います。これは私一人のものではない。時を生きるすべての人への贈り物として」
マリーは、深い満足の表情を浮かべた。
「その答え、きっと織機も喜んでいるわ」
実際、織機からは最後の一音が、優しい鈴の音のように響いた。それは別れの音ではなく、新しい始まりを告げる音色のようだった。




