第四十三章「月桜の約束」
春の訪れを告げる風が、光の谷を優しく撫でていた。エマの工房では、ユーリアから受け継いだ着物の最後の仕上げが進められていた。月明かりに照らされた金糸が、夜桜の模様の上で静かに輝いている。
「もうすぐ満月ね……」
エマは窓の外を見上げた。雲間から覗く月が、日を追うごとに丸みを帯びている。
「エマ、その着物のことで話があるの」
マリーお婆さんが、いつもより厳かな様子で工房を訪れた。
「時の祠を知っているかい?」
「いいえ、初めて聞きます」
「それは、百年に一度だけ扉が開く特別な場所。そして今年が、その時なのよ」
エマの胸が、小さく高鳴った。何か運命的なものを感じる。
「満月の夜に、その着物を祠に奉納してみなさい。きっと、素晴らしいことが起こるはず」
その言葉に、エマは深い意味を感じていた。ユーリアの想いが込められたこの着物には、きっと特別な力が宿っているはずだ。
満月の夜。エマは着物を抱え、マリーお婆さんに導かれるまま、村はずれの小さな丘を登っていく。満月の光が、道を銀色に照らしている。
「エマ、ここよ」
石畳の小道の先に、古びた祠が佇んでいた。月光を受けて、不思議な存在感を放っている。
マリーが扉を開くと、中から優しい光が溢れ出した。
「さあ、着物を中に」
エマが着物を祠の中に置いた瞬間、驚くべき光景が広がり始めた。着物から放たれた光が周囲に広がり、まるで百年前の風景が蘇ったかのように、満開の夜桜が空間に浮かび上がったのだ。
「まあ……!」
その桜の木の下に、二つの光の存在が現れた。ユーリアと、若い武人の姿。
「ついに、会えたのね」
ユーリアの声が、風のように優しく響く。
「ごめんね、約束の夜桜を、一緒に見られなくて」
武人は静かに首を振った。
「いや、今こうして見られている。君の想いが、この瞬間を作ってくれたんだ」
エマは、涙が止まらなかった。百年の時を超えて、二つの魂が再会を果たす。その光景は、あまりにも美しく、そして温かい。
その時、もう一つの光が現れた。それは風の道のような、青い光の帯。
「ルーク……?」
エマの心が、大きく揺れる。その光の中に、遠く北の地で修行を続けるルークの姿を感じた気がした。
「エマ」
ユーリアが、エマの方を振り向いた。
「ありがとう。あなたのおかげで、私たちは再会できた。そして、あなたも気付いたでしょう?」
「はい……」
エマは静かに頷いた。芸術に込められた想いは、時を超えて存在し続ける。そして、待つことは決して無駄ではない。それは魂を育み、より深い愛を紡ぎ出す時間なのだと。
夜桜の幻影が、ゆっくりと消えていく。でも、エマの心には確かな暖かさが残されていた。
「行きましょう」
マリーが、優しく声をかけた。
「あなたの物語は、まだ始まったばかり」
エマは、もう一度空を見上げた。満月が、まるで微笑んでいるように見えた。その光は、遠く北の空まで届いているに違いない。
春風が、桜の香りを運んでくる。エマの銀髪が、月光に照らされて揺れる。それは新しい約束の始まりを告げるような、優しい夜だった。




