第三十八章「夜の音色」
秋の深まりとともに、夜が長くなってきた光の谷。エマの工房でも、ランプの灯りが以前より早く点されるようになっていた。
カタ、カタ、カタ……。
エマは織機の音に耳を澄ませた。いつもと少し違う響きがする。まるで誰かが、別の織機を奏でているかのような。
「気のせいかしら……」
窓の外では、満月が雲間から顔を覗かせている。その光を受けて、工房の床に淡い影が落ちていた。
カタ、コト、カタ、コト……。
確かに、もう一つの音が聞こえる。エマは静かに立ち上がり、2階の工房を見回した。月の光が差し込む窓辺に、見覚えのない糸車が置かれている。
そして、そこには一人の少女が座っていた。
「あ……」
思わず声が漏れる。少女は振り向かず、ただ黙々と糸を紡ぎ続けている。薄い青色の着物を着た姿は、月光に透けるように儚げだ。
「あの、どなた……?」
エマが声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。その表情には、深い哀しみの色が宿っていた。
「紡がなくては……約束の着物が、間に合わない……」
少女の声は、風のようにかすかだった。その手は止まることなく、糸車を回し続けている。
エマは、不思議と恐怖を感じなかった。むしろ、この少女の姿に心を打たれた。その仕草には、どこか切実な想いが込められているように見える。
「私にも、手伝わせてもらえませんか?」
エマがそう言うと、少女は初めて微かな笑みを浮かべた。その笑顔には、月の光のような優しさがあった。
「ありがとう……でも、これは私が、紡がなければ……」
その言葉を最後に、少女の姿は月明かりの中に溶けるように消えていった。後には古びた糸車だけが、静かに佇んでいる。
翌朝、エマはマリーお婆さんを訪ねた。
「まあ、青い着物の少女に糸車……」
マリーは深い思索に沈んだ様子で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それは、きっとユーリアのことね」
「ユーリア?」
「ええ。百年ほど前、この村に住んでいた織り手よ。婚約者のために着物を織り続けて……」
マリーの声が、一瞬途切れた。
「でも、その方は?」
「戦に行ったきり、帰らぬ人となった。それでもユーリアは待ち続けた。糸を紡ぎ、布を織り……最後まで希望を持ち続けて」
エマの胸に、切なさが広がる。前世でも、このような深い想いで何かを待ち続けたことはあっただろうか。いつも追い立てられるように生きて、誰かを、あるいは何かを静かに待つ心の余裕すら持てなかった。
「エマ」
マリーが、静かな声で言う。
「光の谷には、古くからの想いが今も残っているの。それは必ずしも悲しいことばかりじゃない。待つことの美しさ、想い続けることの尊さを教えてくれる」
工房に戻ったエマは、窓辺に残された糸車をそっと撫でた。月明かりに照らされた糸車は、まるでユーリアの想いを今も紡ぎ続けているかのように見えた。
外では、秋の風が静かに吹き抜けていく。その音は、どこか糸車の音色に似ていた。




