第三十二章 風の手ほどき
翌朝、羊飼いの丘で、エマはルークから風を感じ取る方法を教わっていた。
「目を閉じて。風は、全身で感じるものなんだ」
エマは言われた通りに目を閉じる。すると、今まで気付かなかった風の動きが、少しずつ分かってきた。
「ほら、風には様々な層があるでしょう? 地表を滑るような風、空高く昇る風、渦を巻く風……」
「本当です……! 今まで気付かなかった風の動きが、感じられます」
ルークの声は、風のように柔らかく、しかし芯のある響きを持っていた。
「風は自由だけれど、決して気まぐれではない。それぞれの風に、意味があり、役割がある」
エマは、ゆっくりと目を開けた。朝露に濡れた草原が、風に揺れている。その一つ一つの動きが、今までとは違って見える。
「不思議ですね。風の流れが、まるで目に見えるように分かるんです」
ルークは満足げに頷いた。その横顔が朝日に照らされ、透明感のある光を帯びている。
「次は、この風を布に封じ込める方法を考えてみよう」
エマは、持参した織り糸を取り出した。それは月詠みの花から抽出した染料で染められ、かすかな光を放っている。
「この糸に、風の動きを織り込むんですね」
「ああ。でも、風を捕まえようとしてはだめだ。風と共に流れるように」
ルークの杖が、優雅な弧を描く。すると、エマの手元で糸が不思議な動きを始めた。まるで風に導かれるように、螺旋を描いていく。
「これは……!」
「風は、君の意図を理解しようとしているんだ」
エマの心に、不思議な感動が広がっていく。前世でも、素材との対話は大切にしてきた。でも、これほど生き生きと素材が応えてくれることはなかった。
「ルークさん、どうしてこんなにも風を理解できるんですか?」
問いかけに、ルークは少し遠い目をした。
「僕は幼い頃から、風と共に育ったんだ。両親を失って、風だけが友だちだった時期もあってね」
その言葉に、エマは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。自由な魂の裏側にある孤独。それは、前世の自分にも通じるものがあった。
「でも、それは今では僕の強みになっている」
ルークは、晴れやかな表情で空を見上げた。
「風は決して一箇所に留まらない。でも、必要な場所に必ず戻ってくる。その自由さと信頼関係が、風を理解する鍵なんだ」
エマは、その言葉の意味をゆっくりと噛みしめた。自由であることと、信頼関係を結ぶこと。一見相反するようで、実は深く結びついているのかもしれない。
「さあ、実際に織ってみよう」
エマは小さな織機を広げ、糸を通し始めた。ルークの操る風が、優しく糸を導いていく。
「織り目の間に、風の流れを閉じ込めるんだ」
一筋、また一筋と布が形作られていく。そこには、今までにない生命力が宿っていた。風と祝福の力が溶け合い、新しい可能性を見せ始めていた。
丘の上で過ごす二人の姿を、村人たちが興味深そうに見守っている。その中でマリーお婆さんは、意味深な表情を浮かべていた。
「風の術士か……運命の風が、また新しい物語を紡ぎ始めたようじゃな」
朝日が昇るにつれ、エマの心にも新しい感情が芽生え始めていた。それは期待であり、不安であり、そして何か名付けられない想い。




