第十七章 風の便り
初夏の風が、羊飼いの丘を優しく撫でていた。エマは、クララに誘われて羊の毛刈りを手伝いに来ていたのだが、まだ少し緊張している。
「大丈夫よ、怖がらないで」
クララが、エマの背中を優しく押す。目の前には、白い毛並みの美しい羊が穏やかに佇んでいた。
「これはマリー。一番おとなしい子よ」
エマは、恐る恐る手を伸ばした。前世では、生きた動物に触れる機会など皆無だった。
「あ……温かい」
羊の体温が、手のひらから伝わってくる。そして不思議なことに、その温もりとともに、何か別のものも感じ始めた。
「この子、少し不安がってるわ」
「よく分かったわね!」
クララが嬉しそうに声を上げる。
「それが『祝福の雫』の力よ。動物たちの気持ちが分かるようになるの」
エマは、もう一度羊に触れてみた。今度は、優しく頭を撫でながら。
「大丈夫よ、怖くないの……」
すると羊が、すうっと力を抜いた。まるで安心したかのように。
「素晴らしいわ!」
クララが手を叩く。
「マリーがあなたを信頼したのよ。さあ、毛刈りを始めましょう」
エマは、クララから毛刈りばさみの使い方を教わった。羊の体を傷つけないよう、優しく、でもしっかりと。
「昔から、この丘の羊たちは特別な毛を持っているの」
クララが説明する。
「祝福の力を帯びた羊毛は、織物に使うと不思議な温もりを持つ布になるのよ」
エマは、羊の毛を刈りながら、その言葉の意味を考えていた。前世では、材料は単なる道具でしかなかった。でも、ここでは違う。材料にも、確かな命が宿っている。
「あ……」
毛を刈っていると、羊が小さく鳴いた。エマは思わず手を止める。
「大丈夫、痛くないのよ」
クララが、羊の首筋を優しく撫でる。
「むしろ、暑い夏を前に、毛を刈ってもらえて嬉しいくらいなのよ」
エマは、刈り取った毛を手に取った。まだ体温が残っている。そこには、羊の生きた証が、確かに息づいていた。
昼過ぎまで作業を続け、十頭ほどの羊の毛刈りを終えた頃、エマは不思議な感覚に包まれていた。羊たちの温もり、彼女たちの穏やかな呼吸、丘を渡る風の音。すべてが一つの調べとなって、心に響いてくる。
「クララ」
「ええ?」
「私、この羊毛で何か作りたいの。でも、普通の織物じゃなくて……」
エマの目が、キラリと輝いた。
「生きている温もりを、そのまま織り込めないかしら」
クララは、深く頷いた。
「それなら、いいアイデアがあるわ。マリーお婆さんの染料と組み合わせてみない? 羊たちの温もりと、草木の命を織り込んで……」
二人は、夢中で新しい作品のアイデアを語り合った。丘の上で、羊たちが穏やかに草を食む。風が吹くたびに、白い毛並みが波打つように揺れている。
(ああ、なんて豊かな時間)
エマは、深く息を吸い込んだ。前世では、締切に追われ、ただ必死に作品を作っていた。もちろんそこには確かな矜持があった。しかし常に余裕がなかったこともまた事実だ。
でも今は違う。材料との対話を楽しみ、その命を感じながら、ゆっくりと創作できる。
夕暮れ時、エマたちは刈り取った羊毛を籠に詰めて帰路についた。帰り道、エマは何度も振り返っては、丘の上の羊たちを眺めた。
白い毛並みが、夕陽に照らされて黄金色に輝いている。その光景が、まるで祝福のように感じられた。
「ねえ、クララ」
「なあに?」
「また、手伝いに来てもいい?」
クララは、柔らかく微笑んだ。
「もちろんよ。あなたのことを、羊たちも喜ぶわ」
エマの腕の中で、刈り取ったばかりの羊毛が、まだ温かさを残していた。その温もりは、まるで新しい命の始まりを予感させるようだった。
風が丘を吹き抜け、エマの銀髪を優しく揺らめかせる。その風に乗って、羊たちの穏やかな鳴き声が届いてくるような気がした。それは、生命の喜びを伝える、風の便りのように。
エマの心に、新しい創作への期待が、静かに、そして確かに芽生えていった。