第十六章 朝露の調べ
まだ月が空に残る未明、エマは静かに目を覚ました。時計塔の鐘はまだ鳴っていない。
「エマ、準備はできた?」
マリーお婆さんが、工房の入り口で小さく声をかけていた。昨夜、お婆さんから不思議な誘いを受けたのだ。
「露草の摘み方を教えてあげる。特別な染料を作るのよ」
前世なら、こんな早起きは考えられなかった。締切に追われる日々で、夜更かしばかりだった。でも今は違う。
二人は、まだ薄暗い村はずれの野原へと向かった。
「ほら、見えるでしょう?」
マリーが指さす先に、青紫の可憐な花が群生している。月明かりを受けて、幻想的な輝きを放っていた。
「これが露草……」
エマは息を呑んだ。花びらに宿る露が、まるで星屑のように煌めいている。
「露を集めるのは、夜明け前のこの時間でないとね」
マリーは小さな瓶を取り出した。
「でも、ただ集めるだけじゃだめ。花と、露と、心が響き合わないと、祝福の力は宿らないの」
エマは、そっと露草に手を伸ばした。すると不思議なことに、花が微かに光を放ち始める。
「あら……」
「その子が、あなたを受け入れてくれたのね」
マリーが嬉しそうに微笑む。
「さあ、露を集めましょう。でも急いではだめ。一滴一滴に、感謝の気持ちを込めて」
エマは、花びらに宿る露を丁寧に瓶に移していく。その作業は、まるで祈りのようだった。一滴の露が瓶に落ちる度、かすかな光の波紋が広がる。
「不思議ね……」
エマは、自分の手の動きに見入っていた。
「これまででは、こんな風に一つ一つの瞬間を大切にすることなんて、できなかった」
「そう、私たちの仕事は、時間を大切にすることなの」
マリーの声が、朝もやの中に静かに溶けていく。
「自然には、それぞれの営みに最適な時があるの。露を集めるなら夜明け前。藍を漬けるなら満月の夜。染料を煮るなら東風の日……」
話しながら作業を続けていると、東の空が少しずつ明るくなってきた。露草の群生が、朝の光を受けて鮮やかな色を帯び始める。
「ああ……」
思わず声が漏れる。日の出とともに、露が虹色に輝き始めたのだ。
「これが、自然の祝福……」
マリーが静かに頷く。
「そう。私たちは、この美しい瞬間を布に留めようとしているの」
エマは深く息を吸い込んだ。澄んだ空気が、生命の息吹とともに肺に染み渡る。
「なんて贅沢なんでしょう。こんな美しい時間を、こんな近くで感じられるなんて」
前世では、締切に追われる日々の中で、朝日を見上げる余裕すらなかった。でも今、エマは確かに感じていた。自分が生きているという実感を。
「さあ、そろそろ戻りましょう」
マリーが、露の入った瓶を大切そうに包む。
「これから、この露で特別な染料を作るの。あなたの魂が感じた、この朝の輝きを布に染め付けるのよ」
帰り道、エマは時折立ち止まっては、目覚めゆく光の谷の風景を心に刻んでいった。小鳥たちが朝の歌を奏で、花々が一斉に顔を上げる。畑からは土の香りが立ち昇り、遠くの森では木々が風に揺れている。
(ここには、生命が満ちあふれている)
その想いが、温かく胸に広がっていく。前世で見失っていた何か大切なものが、少しずつ見えてきているような気がした。
工房に戻ると、作業台の上で月詠みの花が静かに揺れていた。その姿に、エマは新しい作品のインスピレーションを感じていた。
露のような繊細さと、朝の光のような清々しさを持つ布を作ろう。そこには、今朝感じた生命の煌めきを織り込もう。
エマの心に、創作の喜びが静かに、しかし確かに広がっていった。