第十四章 土の囁き
梅雨の晴れ間、エマは自分の裏庭を見渡していた。月詠みの花が咲く小さな花壇の向こうには、まだ手付かずの空き地が広がっている。
「この場所に……野菜を育ててみようかしら」
エマの心に、前世の記憶が蘇る。締切に追われる日々の中で、食事など適当に済ませていた日々。当然、自分で育てた野菜の味など、知る由もなかった。
「おや、畑仕事に興味が出てきたの?」
マリーお婆さんが、庭の垣根越しに声をかけてきた。
「はい。でも、まだ土作りの方法も分からなくて……」
「それなら、明日の朝、共同菜園に来てみない? みんなで土作りをする日なのよ」
翌朝、エマは早起きをして共同菜園へと向かった。南向きの段々畑には、すでに数人の村人が集まっている。
「エマ! よく来てくれたわね」
クララが手を振る。彼女の隣では、リーゼが土を耕している。
「私たち職人も、自分の食べる野菜くらいは作るのよ。それに、畑仕事は工芸の助けにもなるの」
リーゼの言葉に、エマは首を傾げた。
「工芸の、助けに?」
「ええ。土を耕し、種を蒔き、芽が出るのを待つ。その過程で、自然のリズムを体で覚えるの。それは、作品作りにも通じるものなのよ」
エマは静かに頷いた。たしかに、前世では自然のリズムなど無視して、ただがむしゃらに作品を作っていた。
「さあ、まずは土に触れてみましょう」
マリーお婆さんが、エマの手を取る。二人で土を掘り返していくと、湿った土の香りが立ち昇った。
「ああ……」
思わず声が漏れる。この感触、この香り。まるで大地の鼓動が、直接手のひらに伝わってくるようだ。
「土には、それぞれ個性があるの」
マリーは、掘り出した土を指の間で転がしながら説明する。
「粘土質の土、砂質の土、腐葉土……。それぞれの土が、違う野菜を育てるのを得意としている。ちょうど、私たち職人がそれぞれ得意な技を持っているように」
エマは、土の感触にじっくりと意識を向けた。すると不思議なことに、土が何かを語りかけてくるような感覚を覚えた。
「これが……『祝福の雫』?」
「そう。土にも魂が宿っているのよ。私たちは、その声に耳を傾けながら、野菜を育てていくの」
午前中いっぱいをかけて、エマたちは土作りを続けた。堆肥を混ぜ、土を耕し、畝を作っていく。汗が滴るほどの労働だったが、不思議と疲れを感じなかった。
昼休みになり、みんなで持ち寄ったおにぎりを分け合って食べる。木陰に腰を下ろし、畑を眺めながらの食事は、前世では想像もできなかった贅沢だった。
「なんだか、心が落ち着くわ……」
エマがつぶやくと、クララが優しく微笑んだ。
「それはきっと、大地があなたを受け入れてくれた証なのよ」
午後の陽射しの中、エマは自分の区画に初めての種を蒔いた。ほうれん草、人参、かぶ。マリーお婆さんに教わった通り、一粒一粒に想いを込めて。
(お願い。しっかり育ってね)
種を覆う土の感触が、まるで応えるように温かい。エマは確かに感じていた。これもまた、新しい形の創作なのだと。
夕暮れ時、エマは土の香りの染みついた手を、満足げに眺めていた。明日から、この手で工芸品を作る。きっと、今までとは違う作品が生まれるに違いない。
大地に寄り添いながら、ゆっくりと成長していく。それは作物も、作品も、そして自分自身も、同じなのかもしれない。
夕陽が段々畑を優しく染めていく中、エマの心には確かな希望の芽が息づいていた。