第一章 魂の対話
病室の窓から差し込む夕陽が、紫京院英恵の蒼白い頬を淡く染めていた。点滴の滴る音だけが、静寂を刻むように響いている。
「あと、どのくらい生きられるのでしょうか……」
「あと二ヶ月……は……厳しいかもしれません……」
担当医の言葉が、まだ耳の奥で反響していた。
末期のすい臓がん。もう手の施しようがないと。
二十七歳。人生の序章を書き終えたばかりの年齢で、英恵は死を宣告されていた。
白い天井を見つめる瞳に、これまで手がけてきた映像作品たちが走馬灯のように流れていく。映像、広告、音楽、演出……。すべてが自分の魂を削り出すように作り上げた作品たちだ。
ベッドサイドの小さなモニターに、最後の作品が再生されている。二週間前に納品した広告フィルム。病床に伏したまま、タブレットで編集作業を続けた渾身の作品。それは結果的に、自分の遺作となるのだろう。
「なぜ……」
乾いた唇から、か細い呟きが零れる。
「なぜ、この歳で私は……まだやり残したことが、たくさん……」
涙が頬を伝う。
その時、不思議な温かさが、英恵の意識を包み込んだ。
(あなたは自分の魂を苛烈に酷使しすぎました)
優しい声が、直接心に響いてくる。
「誰……なの?」
(あなたの芸術に対する情熱は確かに見事でした。しかしその情熱の炎が大きすぎて、貴女は自分の魂を焼き尽くしてしまったのです)
その声に、何かが胸の奥で震えた。そうか。自分は知らず知らずのうちに、己の命を削っていたのか。
「そんな……今さらそんなことを言われても……」
苦い笑みが浮かぶ。確かに、自分は常に限界まで自分を追い込んできた。深夜まで編集室に篭もり、朝までプレゼン資料を作り、締切に追われ続けた……。
(チャンスがほしいですか?)
「チャンス……?」
(もう一度生まれ変わって、今度は魂を大事にしながら、芸術に親しみ、本当の意味で「生きて」みたいと想いますか?)
その言葉に、英恵の意識が揺れた。
生きる?
私は本当に生きていたのだろうか。
ただ作品を生み出すことだけに囚われ、自分という存在を見失っていたのではないか。
モニターに映る最後の作品を見つめる。
確かに素晴らしい出来だ。
しかし、この作品を作り上げた代償として、自分は今、死の床に横たわっている。
英恵の脳裏に、スタッフたちの心配そうな表情が浮かび上がる。
「英恵さん、少し休んだ方が……」
「この企画は他の人に任せても……」
「体調が悪そうですけど、本当に大丈夫ですか?」
その度に、英恵は笑って答えていた。
「大丈夫です。私にしかできない表現があるんです」
その言葉は、本当は誰かのためでも、作品のためでもなく、ただ己の執着のためだったのではないか。
温かな涙が、止めどなく溢れ出す。
「そうですね……確かに私は、自分を生きていなかった」
掠れた声で、英恵は続けた。
「ただ創作の名の下に、自分を苛烈に追い詰めていただけ……。こうなるまで、それに気付けなかった……」
夕陽が沈みゆく窓辺を見つめながら、英恵は深く息を吸い込んだ。
「もう一度……生きたいです」
その言葉には、これまでにない確かな意志が宿っていた。
「今度は、魂と創作の調和を保ちながら、自分らしく生きたい。決して、二度と自分を殺したくない……!」
(わかったようですね……)
声は満足げに微笑んでいるようだった。
(いいでしょう。次は決して間違えないように……魂の調和を大切に……あなたらしく……豊かに、すこやかに……)
意識が徐々に遠のいていく。でも、それは死の暗闇ではなく、暖かな光に包まれるような心地よさだった。
最後に見た病室の風景が、優しく溶けていく。
そして──。
次に目を開けた時、英恵は……いや、エマ・ヴァンローズは、若葉萌える美しい森の中に立っていた。