とあるエルフの懺悔の記録
わたしには年の離れた弟がおりました。
母は弟を産み落としてこの世を去りました。
母を深く愛していた父は、魂が抜けたようになって、乳飲み子を腕に抱くこともしないまま、母の後を追うように逝ってしまいました。
長命なエルフには子どもは滅多に生まれません。
同じ郷に幼い子どもはなく、わたしは子どもの世話などしたこともありませんでした。
見よう見まねと又聞きの知識で、わたしは必死に弟を育てました。
今から思えば、赤ん坊だった弟にとっては、災難だったなと思うこともたくさんあります。
けれどわたしは、そのときそのとき、弟にとって最善だと思うことを尽くしてきたのでした。
生まれたばかりの弟の世話にかかりきりで、わたしには、父母を失った悲しみを感じる暇もありませんでした。
ただ、父にも母にも抱かれなかった弟が不憫で仕方ありませんでした。
温かな母の胸も、力強い父の腕も知らず、頼りない兄の細腕にだけ抱かれる弟を、せめてわたしは精一杯愛そうと思いました。
それは多分、わたし自身も、父母を失った寂しさを、弟を愛することで埋めようとしていたのでしょう。
それにしても、弟は可愛い赤ん坊でした。
雲間から差す日の光のような金の髪は母にそっくりで、滾々と湧き出る泉のように青い瞳は父にそっくりでした。
生まれたばかりのころ、あわあわと泣くと、わたしは何をしていてもすぐに弟のもとに駆け付けました。
弟はわたしが分かるのか、傍にいくと、じぃっとわたしの顔を見つめます。
それから、ときどき、へらり、と無垢な笑顔を見せてくれます。
泣いていても、しゃっくりをしていても、げっぷをしていても可愛いのに、そんな笑顔を見せられた日には、あまりの可愛さに、疲れなどすべて吹き飛んでしまいました。
小さな手でわたしの指をぎゅっと握る弟を、わたしは何があっても守り抜こうと、何度も何度も心に誓いました。
弟はよく泣く赤ん坊でした。機嫌よくひとりでいてくれることなど、皆無と言っていいほどでした。
それもきっと父母がいないせいだろう、そう思うと、弟がかわいそうでなりませんでした。
弟が泣くときには、夜も眠らず、食事もとらずに、わたしは弟を抱き続けました。
首が座ると、一日中おぶって仕事をしました。
わたしは数日なら水だけでも平気ですが、弟はそういうわけにはいきません。
甘蔓の汁を絞って薄めた湯や、果実を煮詰めた汁を弟のために作りました。
洗濯物も毎日、山のようでした。
それでも、弟には清潔なものを着せなければなりません。
冬場はなかなかに辛い作業でしたが、温かい季節にはそれは楽しい仕事でもありました。
ごしごし洗って真っ白になった衣をずらっと並べて干していきます。
はたはたと風に揺れる白い布の列は、なかなかの壮観で、気持ちまで晴れ晴れしてきます。
思わず両手を広げてあははと笑うと、背中で弟もきゃっきゃと笑いました。
そう、弟と二人暮らしたあの頃、わたしは確かに幸せだったのです。
けれど、わたしは愚かな兄でした。
子どもを育てるには、わたし自身がまだ幼かったのかもしれません。
やがて、弟は歩くようになり、話すようにもなりました。
そんな弟に、わたしは、いけない、ということを教えませんでした。
弟が困ったことを仕出かしても、自分が後始末をすればいいのだからと思っていました。
そのうちに、弟は郷の人々に迷惑をかけるようになりました。
苦情を言われるたびに、わたしは弟に代わって謝りました。
あの子は、かわいそうな子です。でも、根は真っ直ぐないい子なのです。
少しばかり好奇心が勝って、だから、困ったことを仕出かします。
でも、心の奥ではいけないことはちゃんと分かっているのです。
そう言って頭を下げると、郷の人々は渋々ながらも怒りを収めてくれました。
わたしの家は、先祖代々、森の泉の番人をしておりました。
家も泉の傍にあって、郷からは少し離れていました。
泉は小さな川を作り、その川は郷へと流れていきます。
郷の人々は、その水を使って暮らしていました。
聖なる泉は、郷のエルフたちの命を繋ぐ水でした。
父の跡を継いで、わたしは番人の真似事のようなこともしていました。
番人と言っても、大した仕事はありません。
ただ、毎日、泉の周囲を清め、穢れが入り込まないようにするだけです。
早朝、泉の周囲を掃除していると、何も言わないのに、弟はよく手伝ってくれました。
そんな弟をわたしは、なんていい子なんだろうと思いました。
弟には、確かにそんな一面もあったのです。
泉には、郷で疲れた人たちが、心を癒しに来られることもありました。
その人たちのお話しを聞くことも、わたしのお役目でした。
聞いた話を木の葉に乗せて、泉の水に流します。
わたしには父のような力はありませんでしたから、大したことはできませんでした。
それでも、心が軽くなったと言ってくださる方は何人もいらっしゃいました。
郷の人々に叱られた弟は、泉や森でひとりで遊ぶようになりました。
わたしはそれも仕方ないと思っておりました。
郷の人のお話しを聞いている間は、弟に構ってやることはできません。
その間は弟のことが気がかりでなりませんでした。
けれど、番人のお役目をきっちり果たすことも、いずれ弟のためになると、わたしは思っていました。
いつの間にか弟は、弟の生まれたころのわたしよりも大きくなっていました。
そのころになると、森に行って、狩の真似事をするようになりました。
わたしはあまり獣の肉は好みませんが、弟は肉が大好物でした。
おそらく、赤ん坊のころに、栄養が足りなかったのでしょう。
エルフは好んで肉を食べる人はあまりいませんが、肉食は禁じられているわけではありません。
殺戒も、食べるための狩であれば、認められておりました。
ある朝のことでした。
大物を狙うと言って森に行った弟は、もう何日も帰ってきていませんでした。
わたしは弟の身を案じながらも、いつものように泉の周囲を清めておりました。
すると、ふと、泉のほうから、弟の声を聴いたような気がしました。
急いで行ってみると、弟は鼻歌を歌いながら、血に濡れた手を泉に浸しておりました。
獲物の血で汚れた手を洗っていたのでした。
わたしは思わず悲鳴を上げました。
聖なる泉を獣の血で穢すことは、なにより、してはいけないことでした。
あわてて、水を汲みだそうとしましたが、流れてしまった血液は、もはやどうすることもできませんでした。
弟は、焦るわたしを見て笑いました。
これまでだって、獲物の血で汚れた手は小川で洗っていたのだと言いました。
べつだんそれで、困ったことは起きていない。
だから、その上流の泉で手を洗っても、問題はないだろうと言って。
わたしは血の気が引くのを感じました。
なんて罰当たりなんだろうと思いました。
弟に、いけない、ということを教えなかったことを、強く強く後悔しました。
けれど、もはやすべては手遅れでした。
何事も起きないようにと、祈るように数日を過ごしました。
けれど、わたしの祈りは届きませんでした。
いえ、そもそも、祈るはずの神を穢してしまったのだから、それは当然の報いでした。
郷に謎の疫病が流行っている。
報せを受けて、わたしは郷へと走りました。
郷の人々は、理由も分からずに、高熱に苦しめられていました。
それからのことは、途切れ途切れにしか覚えていません。
わたしは、とにかく病人の家を回っては、治癒の魔法を使い続けました。
魔力が切れて意識が途切れ、はっと目を覚ましては、次の家にむかいました。
どれほどに苦しくても、病を受けた人のほうがもっと、何倍も苦しいのだから。
そう思って歯を食いしばりました。
弟の仕出かしたことだから、わたしが後始末をする。
それしかできることを思いつきませんでした。
ようやく病の流行が一段落したのは、季節がひとつ過ぎたころでした。
わたしはもうずっと家には戻っておりませんでした。
なんとか死人が出ずに済んだことだけは、不幸中の幸いでした。
ずいぶん久しぶりに、わたしは弟の待つ家に帰りました。
今度こそ、弟をちゃんと叱らなければ、と思いつつも、多分、弟の顔を見たら嬉しくて、ちゃんと叱れないだろうなあ、などと考えていました。
帰り着いた家は、もう暗くなる時刻だと言うのに、灯りもついていませんでした。
弟はまた狩に行っているのでしょうか。
やれやれ、とため息をつきつつ、扉に手をかけて、わたしは異変に気づきました。
家のなかには、たしかに、人の気配があるのです。
それなのに灯りがついていない。
わたしは、大きな声を出して弟の名を呼びました。
弟がなにか危険な目に合っているのではないか。
そんな恐怖が湧き上がってきました。
急いで、光の魔法を放ちました。
そして、わたしはそこに見てしまいました。
黒い布に身を包み、光を恐れて打ち震える弟の姿を。
言葉も声も出ませんでした。
ただ、弟に駆け寄って、わたしはその瞳を覗き込みました。
弟は、まだ、エルフではありました。
けれど、その瞳は濁り、髪も艶を失っていました。
わたしは声を殺して泣きました。
弟をこんな姿にしたのは自分です。
いけないことはいけないと、教えなかったわたしのせいです。
すがりついて泣くわたしを、弟は振り払いました。
それは、想像もつかない強い力でした。
突き飛ばされてしたたかに背中を打ち付けたわたしは、そこに立つ弟の姿を見ました。
ほんの数か月の間に、見上げるほどに大きくなった弟の姿を。
こうしてはいられませんでした。
オーク化しかかった同族は、檻に入れられて森の奥に放置されます。
泣いても暴れても、その扉は決して開きません。
毎日一度だけ質素な食事を届けてもらえますが、それはオークの空腹を満たすにはあまりにも少ない量しかありません。
なにかのはずみに光を浴びてしまうまで、それは続けられるのです。
殺戒は犯さずに、郷からオークを出さないための、それは郷の掟でした。
郷の人に見つかれば、おそらく弟もそうなるでしょう。
わたしがどれだけ謝っても、今度ばかりは誰も赦してくれないでしょう。
わたしは急いで旅支度を始めました。
弟を連れて逃げよう。
それしか頭にありませんでした。
そのときでした。
扉のところでなにか物音がしたのは。
振り返ると、郷のエルフがふたり、立っていました。
彼らはわたしの幼いころからの友でした。
家に帰ったわたしに、今夜の食事を届けに来てくれたのでした。
彼らに見つかった以上、もう弟のことを隠してはおけません。
わたしは初めて、人に対して、殺意というものを感じました。
何も考えずに、わたしは風の刃の魔法を打っていました。
それでも迷いはあったのでしょう。
刃はわずかに逸れ、友の髪をはらはらと散らせて、その後ろの壁を破壊しました。
あれがまともに友に当たっていたら・・・
穴のあいた壁を見て、わたしは我に返りました。
そして、ひどく後悔しました。
開きっぱなしの目から、涙が止まりませんでした。
弟を隠すようにわたしはその前に立ちはだかりました。
もちろん、わたしより大きな弟のからだを、隠すことなんかできないのですけれども。
友は、そんなわたしに笑いかけました。
そして、言いました。
旅立つなら、少しだけ待ってくれ、と。
郷の人々に報せるのかと、わたしは尋ねました。
友は、そんなことはしないと言いました。
ただ、今のお前に必要なものをとってくるから、と。
友の持ってきた食事を、弟はがつがつと食べていました。
おそらく、もう何日も食べていなかったのでしょう。
光を恐れる弟は、外に出て、食べ物を探すこともできなかったのです。
わたしは悲しくてしかたありませんでした。
けれど、泣いている暇はありません。
お腹を満たした弟は、はっと、我に返ったようにわたしの顔を見ました。
その目は、以前の、エルフだった弟の目でした。
兄様、おかえりなさい。
弟はたった今わたしを見つけたというように、わたしを見て笑いました。
その笑顔は、赤ん坊だったころの、あの無垢な笑顔のままでした。
ただいま。
わたしは、笑ってそう答えました。
笑っているのに、涙は溢れました。
どうしたの?兄様?
弟はそんなわたしを不思議そうに見ていました。
わたしは愛しい弟を抱き寄せて、声を出して笑いました。
大笑いをしながら、涙を流して泣きました。
友が届けてくれたのは、『オークの涙』という宝石でした。
オークになりかけた者が飲めば、オークになることを少し遅らせてくれる効果のある石でした。
それはとても貴重なもので、ほんの一握り、郷の宝物倉に収められていたものでした。
正当な方法で友がそれを持ち出してきたとは、とても思えませんでした。
それでも、わたしはそれを、黙って受け取りました。
これだけで、どれくらいの間もつかは分からないけれど。
友はそう言いました。
わたしもそれは分かっていました。
それでも、少しでも長く、弟といたかった。
友に罪を犯させてでも、弟との時間がほしかった。
わたしは罪人です。