性格の手術
「楽しい時間でした。せっかくこうして出会えたんですから、ぜひまたお会いしましょう」
ラフな格好をした男性が立ち上がり、座っているもう一人の男に握手を求める。男は少しだけ逡巡しながらも手を差し出し、二人は固い握手を交わす。男は軽く会釈した後、満足気な表情を浮かべながら病院の応接間から出ていった。そして、白衣に身を包んだ初老の医者が入れ替わりで応接間に入ってくると、先程まで男が座っていた椅子へと腰掛ける。
「どうです? 彼があなたと同じような引きこもり当事者だったとは到底思えないでしょう?」
医者はできる限り柔和な口調で真向かいに座っている男に話しかけた。しかし、男が陰鬱な表情のままさっと目を伏せると、眼鏡の奥の瞳に一瞬だけ失望の光が浮かんだ。気まずい空気を入れ替えようとするかのように、医者はおもむろに立ち上がる。そのまま部屋の奥に設置されたエスプレッソマシンへと歩み寄り、二人分のブレンドコーヒーを淹れ始めた。深みと渋みを帯びた芳香が部屋の中に漂い始める。医者がコーヒーを手渡すと、男はためらいがちに受け取り、一口だけ口をつける。
「あの人が僕と同じような境遇にいたこととか、今は幸せに暮らせているということもわかりました……。ですが、それでもまだ踏ん切りがつかなくて」
「無理もありませんよ。人生の重大な選択を迫られているのですから」
医者はそうなだめすかすと、自分もコーヒーに口をつける。医者は両手を自分の膝の上に置き、男の言葉の続きを待った。しかし、男が発するべき言葉を見つけあぐねていることに気がつくと、医者は困りかねた表情を浮かべながら、耳の裏を左手でボリボリと掻く。
「確認するまでもないですが、性格を変える手術を受けるかどうかは、最終的にはあなたが決めることです。私にできることといえば、あなたの疑問を晴らし、また背中を押してあげることくらいなんです」
男は小さく頷いてみせる。医者の言うことは百も承知だった。自分の責任で決めなければならない。それでも、眼の前にいる人の良さそうな医者が受けなさいと命令してくれたら。そんな甘えの気持ちを捨てきれずにいるのも事実だった。
「いいですか。社交的で人懐っこく、自分を信じることができて何事にも積極的な人間があらゆる面で得をする。反対に、人と関わることが苦手で、自分に自信がなく、些細なことで傷ついてしまう繊細な人間があらゆる面で損をする。それが今の社会の構造なのです」
医者が男への助け舟として、そう語りだす。
「畑仕事や工場での仕事といった単純作業の重要性が薄れ、代わりに人と人とのコミュニケーションに関係する仕事の重要性が増しています。人としての道を説いた宗教もその影響を失い、人付き合いが不得手でも、真面目であれば、あるいは優しい人間であれば認められた時代はもう遠い過去の話です。今では、人とのコミュニケーションは必要最低限の条件であり、それを苦とするような人間にとっては非常に息苦しい社会になっています。社会から認められることも、人から愛されることも、人とのつながりがあって初めて得られるものとなってしまったのです」
「それでも……」
男の絞り出すような声に、医者ははたと話を止めた。医者は男の目をじっと見つめる。その眼差しは子供を見守る父親のような優しいまなざしだった。
「それでも……自分の性格を『手術』という手段で変えてしまうことにどこか抵抗があるんです」
医者は男の言葉に小さくうなづく。
「手術を受けることは今までのあなたの人生を否定することにはなりません。それに、手術という方法を用いなければ、性格を変えることはなかなか難しい。心理学的にも、幼少期に形成された性格が生涯に渡って大きな影響を及ぼすことが証明されています。性格の手術が可能となる前の時代でも、認知療法なるものが存在していましたが、なかなか成果をあげることができずにいたことも事実です」
男は医者の言葉に対し黙り込む。深くうなだれ、それはまるで自分を取り囲む世界そのものを拒絶しようとしているかのように見えた。医者はただ沈黙を貫いた。彼に優しい言葉を投げかけることも、甘い言葉で誘惑することもできた。しかし、医者は長年の経験から、彼が心の中の葛藤と闘っているということを見抜いていた。医者が今まで診てきた人々もまた彼と同じ葛藤を感じ、それを乗り越えてきた。医者は男を信じ、辛抱強く待ち続けた。
「悔しいんです」
男は長い沈黙の後、か細い声でそうつぶやいた。
「悪いことをしたわけでもなく、望んでこうなったというわけでもない。生まれ持ってこういう性格になっただけなのに……それを否定されるのが……悔しくて」
医者はじっと目を閉じ、男の言葉に真摯に耳を傾けた。男の心の奥底から発せられた叫びは医者の胸をキリキリと締め上げていく。決して慣れることのない胸の苦しみを医者はじっと噛み締めた。彼の苦しみに共感し、ともに苦しむことこそが、性格を手術する医者としての責務だと信じていたからだった。
「私はかつて、そんな社会に異を唱える理想主義者でした」
医者は落ち着いた口調で語り始めた。
「外交的な人間も、繊細で大人しい人間も、色んな人間がそれぞれにふさわしい環境で、同じだけの幸せを得られるような社会であって欲しいと心から願っていました。ですが、社会がこうであって欲しいということと、社会がこうであるということは全くもって違うということに気がついたのです。いくら立派な理想を語ったところで、苦しんでいる人間を救うことはできない。理想主義者は決して、今現在苦しんでいる人間の幸せに責任をもつわけではない。その欺瞞に気がついた時、私は人の幸せを手助けする、現実主義者になろうと決意したのです」
医者はゆっくりとした口調で語り続ける。しかし、その言葉に秘められた熱い息吹は、男の心に確かに伝わっていた。
「あなたはまだ若い。あなたを今立ち止まらせているのは、まごうことなきあなたの性格自身なのです。大事なのは、プライドよりも理想よりも、あなたが心のそこから幸せになりたいかということなんですよ……!」
医者の言葉に男ははっと顔をあげた。潤んだ瞳の端から一筋の涙がこぼれ落ちる。男の顔は激情に駆られて小刻みに震えていた。医者は初めて見せる男の感情的な気分の高まりを正面から受け止めた。伏し目がちで、決して目を合わそうとしなかった男の視線は一直線に医者の瞳に向けられていた。
「こんなダメな人間でも………やり直せますか……!?」
医者は椅子から立ち上がり、男の肩に優しく手をおく。医者の目は男と同じように涙で潤んでいた。
「手術を受けさえすれば……そうすれば少なくとも、自分を必要以上に卑下してしまう苦しみからは逃れられます」
男は右手を顔に当て、声を押し殺して泣き始めた。医者は手を男の背中にまわし、男の気持ちがすっかり落ち着いてしまうまでずっと、震える背中をさすって上げた。しばらくして男が泣き止み、再び顔を上げた時、その泣き腫れた赤い瞳の奥には決意と希望に満ちた光が宿っていた。医者に促されるまま、男は立ち上がる。そして、男は医者に身体を支えられながら、病院の応接間から出ていった。




