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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

百合短編まとめ

ご都合主義的プレリュード

作者: みたよーき

 丘を登る足を止め、後ろを振り返る。

 ここからの眺めは、十年前とあまり変わらない気がする。駅の方へ目を向けると、流石に多少新しいだろう建物も目に映るが、都会の景色に慣れた目にはやはり、どこか侘しい田舎の一風景だった。

 目線を前へ戻すと、目印の樹は昔と変わらずそこにある。ふと、昔はあそこまで一息に駆け上がっていたことを思い出すが、ここで立ち止まったことは、体が大きくなったからで仕方ないんだ、二十歳の私の体力が衰えているわけではないんだ、と言い訳のように思い直し、また歩を前に運ぶ。

 今日、約束の日。約束の場所は、もうすぐそこだ。


 その子と出逢ったのは、小学四年生になる春のことだった。

 その頃、夫に三行半を突きつけた母は、私を連れて実家へ戻った。その後、離婚調停に入ってから母は親権と養育費のみを求め、あっさり離婚を成立させたそうだが、当時の私はそんなことは知る由も無いし、今となっても割とどうでも良いことだ。その離婚の顛末を教えられたのは中学生になる直前だったが、そんな子供にドア・イン・ザ・フェイスなんて心理的なテクニックを教える母親というのもどうかしてると思う。

 ……話を戻そう。

 その母の実家は、正に“ザ・田舎”といった趣で、褒め言葉として「のどかな風景」だとか「豊かな自然」なんて言葉が使われるような環境だったが、それが子供にとって喜ばしいことであったかどうかは、多くの方には言うまでもなくご理解いただけるものと思う。それがどこかということに関しては、大学に入ってから同郷だという人にそんな田舎話をしたところ理不尽にキレられるという経験をしたものだから、日本のどこか、ということ以上については、ご想像にお任せしたい。

 とにかく、そんな場所で出逢った、ただ一つの光明、それが、同時期に隣に引っ越してきた一家の、同い年の女の子、ナオミだった。――蛇足だが、田舎に於ける“隣”であるから、それなりの距離であるということを付け足しておく。


 ナオミの第一印象は、不思議な子、だった。

「ナオミです。よろしくお願いします」と言って丁寧に頭を下げてくれたが、その発音は辿々しく、更に、しゃべっている人間をじっと見つめ続ける様子もまた、当時の私にとって、ただ不思議だったのだ。

 そんな気持ちがありありと表に出ていたのだろうか、ナオミの両親は私に、「ナオミは耳が聞こえないの」と教えてくれた。

 その時の私はただ「そうなんだ」とだけ思ったし、実際そう口にしたかも知れない。後になって、母が私を呼んだときに、何気なく返事を返した直後、ふと“聞こえない”ということについて考えて、ひどく恐ろしく思えたことは覚えている。それと同時に、ナオミに対して強い尊敬のような想いが生まれたようにも思う。

 ともあれ、無関心とも思えるような私の薄い反応は、だけどナオミにとってはなぜか好意的に受け取られたようで、私達はすぐに仲良くなったのだった。


 一緒に遊ぶようになってすぐ、ナオミは私を彼女の家に招待してくれた。そしてそこで、私は彼女に対する想いをより強くすることになった。

 家の中に音楽室のような部屋があることにもびっくりしたのだが、本当に驚くべきはその後だった。

 ナオミは一つの楽器を手に取った。彼女はそれが『ヴァイオリン』だと私に教えてくれた。

 そして、ナオミはそのケースから取り出したヴァイオリンを左手と首元で支え、弓を右手にぴっ、と格好良く構え、弾き始めた。

 その美しい旋律に、私はすぐに没頭した。私の肌にピリピリと感じられる空気の震えもまた、心地良かった。

 演奏が終わったとき、終わってしまうことがひどく寂しいと感じた。でもすぐに、感動を伝えたくて、全力で拍手をした。

 ――そこで、ようやく私は、彼女が耳が聞こえないということを思い出した。

 思い出した瞬間、私の心に更に湧き上がった、あの、強烈な気持ちを、どう表現したら良いのだろう? あの時の気持ちは今でも思い出せる。そして、あの頃よりもずっと語彙が増えたであろう今になってさえ、あの感動を正しく表現する言葉は見つからない。

 ただその時の私はそれほどの感動を持て余しながらも、必死で言葉を探した。部屋の隅のテーブルに、ノートと鉛筆を見つけ、それを手に取り、白紙に向かって思い付いた言葉を書き殴った。

『ナオミちゃん、まほう使いみたい!』

 それを見た彼女は、恥ずかしそうにして、控えめに首を横に振った。

 私は興奮のままに、次の言葉を書き付ける。

『でも、どうして音がわかるの?』

 彼女は私の手からノートと鉛筆を受け取ると、そこに答えを書く。

『体じゅうで音をかんじるの。体にひびくかんじが気もちいいときは、いい音に聞こえるみたい』

 私はさっきの感覚を思い出して、何度も首を縦に振った。そして、またノートを借りて、

『すごく気もちよかった!』

 と、ただそれだけを書いた。

 彼女はまた恥ずかしそうにして、今度はぺこりと可愛らしくお辞儀をした。


 そんな経緯もあって、私はナオミといつでも一緒にいたいと思うほど彼女に傾倒していたが、学校ではなかなか同じ時間を過ごすことは難しかった。彼女は一人きり、特別支援学級で授業を受けていたからだ。

 一緒に参加できる体育の授業も、彼女は見学することが多かったので、寂しく思っていたことを覚えている。他に一緒だったのは、図工や音楽の授業、そして給食の時間で、その中でも私が一番楽しみにしていたのは、音楽の時間だった。ナオミの凄さがみんなに解ってもらえると思っていたからだ。――だけど、結局、彼女が学校でヴァイオリンを弾くことは一度も無かった。

 学校と言えば、思い出すことがある。

 ある時、私が先を歩くナオミに気付いてそちらへ向かおうとすると、そのナオミに二人の男子が話しかけていた。

 だけど、耳の聞こえないナオミは当然気付くことはなく、男子達はそんなナオミの肩を掴んだ。ナオミは文字通り飛び上がるほどに驚いて、泣き出してしまった。

 もしかしたら、彼らはそんなに力を入れていたわけでは無かったのかも知れない。ただ気になる女の子にちょっかいを出すような軽い気持ちだったのかも知れない。――今でこそ、そんな風にも考えられるが、当時の私がそんな風に考えられるはずは無かった。

 その時の私の気持ちは、言葉にするなら“憤怒”だろうか。激昂するというような激しさではなく、怒りのあまり逆に冷静だったかも知れないと思えるほどに、私の心の中は静かだったように思い出せる。

 私はつかつかと歩み寄り、オロオロする男子達の手前の方の、股ぐらを後ろから蹴り上げた。その男子は声も無く崩れ落ち、それを見たもう一方の男子は、泣き出した。騒ぎを聞きつけた先生が駆け寄って、仲裁に入った。結局は私も男子もお互いに謝ることで収まったが、私は内心では納得していなかった。

 男子に対して上手く表現できない不愉快を感じるように自覚したのは、あの時からかも知れない。その根底には父の不義理が両親の離婚の原因だったことなんかも関係しているのかも知れないが、そうであろうとなかろうと、今の私の何かが変わるわけでは無いのだろう。――なぜなら、その時の私は気付いていなかったけれど、その時には既に私の中に確かにあった気持ちが、私をそんな風にしたのだろうから。


 お互いにノートとシャープペンシルを持って、それで言葉を書いて、見て、また書いて。そんな普通よりも回りくどいはずのコミュニケーションは私にとって全く苦にはならなかったし、むしろそれが楽しいと思えた。

 ナオミがいなければきっと退屈だったはずの田舎の景色も、だけど彼女がいるだけで全く飽きることはなく、ひたすらに輝いていた。

 ――でも、そんな日々はいつまでも続いてはくれなかった。


 その子と別れたのは、小学五年生になる春のことだった。

 春休みに入るとすぐ、彼女たちがまた引っ越していくと聞かされた。ナオミが音楽のために海外に留学するのだという。

 彼女と離ればなれになることはとても辛かったけれど、私は彼女の弾くヴァイオリンが大好きだから、仕方ないとも思った。――いや、仕方ないと思い込もうとしていただけかも知れない。いずれにしても、子供の私がその別れの運命を変えることは不可能だった。

 だからせめて私は、また会うための確かなものが欲しくて、タイムカプセルを埋めることをナオミに提案した。そしてナオミが開いたノートには、同じ提案が既に書かれていた。彼女と同じ気持ちを抱いていたことが、とても嬉しかった。

 私達は十年後にそのタイムカプセルを開けることを決め、その中には十年後の私達に宛てた手紙を入れることにした。

 祖父の持つ土地、私達がよく一緒に遊んだ丘の上、一本の立派な樹の下にそれを埋めた。

 そして、たった一年の、だけどとても濃密な思い出と、未来の約束を私に残して、彼女はいなくなった。


 それから私は毎日のようにナオミのことを思い出した。

 きっと、彼女のヴァイオリンを初めて聞いたときにはもう、本当に魔法を掛けられていたのだと思う。

 それは、恋に落ちる魔法。

 そんな自分の気持ちに気付いた時、それから先、十年間も続く、私の片思いは始まった。

 ――その気持ちに、今日、ようやく決着が付くだろう。それが望む結果では無かったとしても、受け入れる覚悟はしているつもりだ。


 約束の場所、あの樹の下に辿り着くやいなや、私はタイムカプセルを掘り起こした。

 私の心の中は、期待と不安がごちゃごちゃになっていて、ナオミを待つという考えは頭の中から抜け落ちていた。

 そして、それはあっさりと土の中から現れた。

 迷わずに蓋を開ける。

 懐かしい、ナオミの字。

 それに引き寄せられるように私の手は伸び、そして私はその手紙を開いた。


『マイ・ディア・サナエ。

 今から10年たって、私はあなたのとなりにいるかな?

 私のねがいは、叶っているかな?


 私は、サナエにひみつにしていたことがあるの。

 私はね、耳が聞こえないだけじゃなくて、心ぞうに病気があるの。

 ヴァイオリンのために留学するっていうのは、うそにするつもりはないけど、一番の理由じゃないの。

 その病気をなおすための手じゅつをしてもらうために、海外に行くっていうのが、本当の一番の理由。

 手じゅつをしてなおさないと、私はあと5年もしないで死んじゃうかもしれないんだって。

 私は、サナエともっとずっといっしょにいたいから、手じゅつをしてもらうって自分できめました。

 手じゅつはぜったいにだいじょうぶではないんだけど、大人になってもおばあちゃんになってもサナエといっしょにいたいから、私は外国に行くね。

 もしかしたら、パパやママが手じゅつのけっかをサナエにもう教えてるかもしれないけど、もしもダメだったら、ごめんね。

 その時は、私のことをずっとわすれないでくれるとうれしいな。


 もしぶじにそこに私がいられたら、私の気持ちをちゃんとサナエに言うね。

 私のサナエへの気持ちは、10年たってもぜったいに変わらないから。

 その時、サナエの気持ちも一緒だったら嬉しいな。


 10才のナオミから未来のサナエへ。』


 聾者(ろうしゃ)のヴァイオリニストなんて、マスコミだとかが好きそうな話題だから、私は思い出すたび何度でも、ネットで検索したりした。だけど、それでナオミのことが見つかったことは、一度も無い。

 だから、この手紙を読んで、私が思い浮かべてしまったのは、最悪の結果だった。

 胸が苦しくなる。

 世界の全てを呪いたくなる。


 ――だけど。


 それが、こんなに近付いて来て、それに、ようやく私は気付けた。

 それは、草を踏みしめる音、微かな息遣い。

 それが私の耳に届いた瞬間、私の目の奥で悲しみに生まれた涙は、喜びに零れ落ちた。

 ああ、こんなご都合主義的な展開が、こんなにも、こんなにも、嬉しい。

 それが誰であるかなんて、疑わなかった。だって、私達は、約束を交わしたのだから。

 でも、私はすぐには振り向けなかった。だって、再会は、笑顔が良いと思ったから。なのに涙は、なかなか止まってはくれなかったから。

 そして彼女も私と同じだったのか、暫くそこには、葉擦れの音と、二人の女がすすり泣く声だけが聞こえていた。

 ――やがてそこに、新しい音色が現れた。

 そのヴァイオリンの旋律はきっと、これから始まる私達の大恋愛のプレリュードを奏でていた――。



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