蛍に逢いに
〇〇文学賞応募作です。
夜十一時に玄関の施錠をする。私の日課だ。
この日も玄関の扉の前まで来るといつも通りドアノブに手をかけた。そして内鍵を回そうとしたその時、ガラス扉の向こうに星空が広がっているのが目に入り手を止めた。
「あれ?今日は湿気っぽいのになあ……」
不思議に思った私は閉めるはずのドアをそっと開ける。その瞬間、湿気を含んだ不快な外気が肌に触れた。
「こんな日もあるのか……」
ひとり言をいいながら、そのまま外へ出るとウッドデッキの上に立った。頭上には想定外の星空が広がっている。梅雨期になり気温も湿度も高くなると星空は見えにくくなるはずなのに。そう思いながら星空を見上げていると、妻の真由が玄関の扉から出てきた。私が戻らないことを心配したのだろうか。どおしたの?と小さい声で不思議そうに聞いてくる。
私は、星空が…と説明しようとしたのと同時だった。
「あっ、今日は星がきれいなんだね」
真由はすぐに頭上に広がる星空に気付いたらしい。見上げたまま、あたりで静かに鳴く虫の声と同じように小さい声で言った。
「今日は湿気っぽいし、こんなにきれいに見えるとは思わなくてびっくりしちゃって」
私も同じくらい小さい声で囁くように答えた。
二人でしばらく星空を眺めていると、先日の聞いた不思議な話をふと思い出した。
「そういえばさあ」
少し言いかけたところで、真由はこの不思議な話に否定的だったことを思い出す。話さなくてもいいかなと一瞬迷った。しかしこの話には新たな展開があったのだった。私は話しておきたい続きがあったことを思い出した。
「この前に泊まりにきたお客さんがホタルを見たって言っていたでしょ。夜に屋上の露天風呂入りながら飛んでいるのを見たって言ってた話。何かの間違いじゃないかという結論だったけど、それから、夜にちょっと外に出たらホタルらしい何かが光っている虫を見ました、っていうお客さんもいてさあ」
間髪いれずに真由は露天風呂での目撃情報のときと同じことを言った。
「いるはずないじゃん。川も池もないしさあ。きっと他の虫と見間違えたんだよ」
新たな目撃情報に興奮したのか、さっきよりも少し大きな声になった。たしかに普通に考えればありえない話ではある。水辺の無いこんなところを飛んでいるとは私だって到底思えない。でも見たと言う人がいるのも事実。それも二回目だ。どちらも見間違えたなんてことはないだろう。もしかしたらホタルじゃなくてまったく別の虫なのかもしれない。何かに反射して光っているように見えただけかもしれない。そうだとしたらそれは一体どんな虫だったのだろうか?どんな風に光っていたのだろうか?
私の頭の中ではホタルが飛んでいる映像が浮かんだ。目の前のウッドデッキの周辺やすぐそばの草むらの上をふわりとホタルが彷徨っている……。
私はホタルを探してみたくなった。もしかしたらすぐそばで飛んでいるのではないか。そう思うと、すぐにでも見つかりそうな気がしてきた。
「ねえ、ホタルを探してみようよ」
私は宝物でも探すような口調で誘った。真由はしょうがないわねえ、という顔をしてちらりと私を見ると、草むらを覗きはじめた。
しばらくの間、二人であたりに何か光っているものがないかと探し続けた。飛んでいるかも知れないし、草の葉に止まっているかも知れない。プランターの花やみかんの木など近くにあるものは片っ端から覗き込んで探してみたが何も見つからない。どちらからともなく探し出すのをあきらめた。
「そらそうでしょ」
口を尖らせて真由はそう言った。それから、いるはずないんだよ、とさっきと同じことをもう一度言うと先に家の中へと入っていった。いるはずがないかあ、いま聞いた言葉を心の中で反復しながら私はふーっとひとつため息をついた。そして頭上に広がる星空を見上げながら、きっとホタルはいるんだよ、どこかにいるはずだ、いや、絶対にいてほしい、願いもこめてそう思った。さっきは光っていなかっただけかもしれないし、いま飛んできたばかりかもしれない。あたりに光る虫はいないかどうか、もう一度探しておこうと思った。しばらく暗闇の中をあちこち覗き込んでみたが、やっぱり何も見つからなかった。
結局私は諦めると中へ入り施錠した。
私と真由は小さなペンションを経営していた。大室山や海を一望できる伊豆高原の小高い山の中腹に建っていた。周りには別荘が少しあったが一年のほとんどが不在のため本当に静かで、さらに明かりが少なく星空がきれいに見える絶好のロケーションだった。
この景色を楽しめるようにと、建物はガラスを多用した造りにした。客室には星空を眺められるように天窓をつけたり、食事を提供するダイニングは、絶景の景色を取り込めるように前面を大きなガラス窓にしていた。
伊豆高原には十年ほど前に脱サラして移り住んだ。夫婦で環境の良いところでゆったりした時間の中で過ごしたい。共通の趣味にも充実させたい。二人で話し合い、いつかはやってみようと思い描いていたペンションがいいのではと考えて一念発起した。もちろん安定したサラリーマン生活を辞めてよいものかと随分悩んだし、先の見えない不安定な生活も不安でいっぱいだった。しかし無我夢中で歩み出すと、経営も軌道に乗りそれなりに充実した日々を過ごしていた。
「あら、ムシを連れて来ちゃったんじゃないの?」
私が部屋に戻るなり真由は空中を飛び回るムシを目で追いかけながら私に言った。たしかに勢いのあるムシがビュンビュンと飛び回っている。しまったなあ、連れて来ちゃったかあ、と言いながらどこかに止まるまでしばらくムシを目で追うしかなかった。
「ああ、カーテンに止まったな」
そう言いながら忍び足で近づいてよく見ると、小さなカナブンだ。器用に手で捕まえると、足をバタつかせ腰をくねらせて暴れている。手を離すとそのまま羽を広げて飛び立ちそうだ。急いで、カナブンを近くの窓から暗闇へと放してやった。
「ところで、さっきの話だけどさ……」
ホタルの話の続きをしようとしたが、真由は用事を思い出したのか慌しく厨房へ入っていった。
仕方なく私は、〈ホタル〉を調べてみることにした。パソコンを立ち上げると検索してみた。
「ゲンジボタル」
きれいな川に生息する、と書いてある。
ここ伊豆高原でも生息している場所があり見に行ったことがあった。天城山のふもとからきれいな湧水がたっぷり出ているところがあり湧水を利用したわさび田が広がっている。その周辺では夏に近づき蒸し暑くなる頃の日没後に天然のホタルが飛び交う。しかしそこからかなりの距離があるので飛んできたとは考えられない。
「ヘイケボタル」
水田や沼や池など比較的きれいではない水辺でも生息する、と書いてある。やはり水辺を好むらしい。
天城山のふもとのさび田の近くには水田があるがやはりそこからでもかなりの距離があるので飛んできたとは考えられなかった。
翌日からしばらく梅雨らしい雨が続いた。
雨の様子をガラス窓からぼーっと外を眺めていると、周辺の景色が一気に濃い緑色に色付いたことに気付いた。さらに所々に見えていた家いえの屋根が見えなくなってきている。一雨ごとに夏に近づき気温も上がり、草木がぐんぐんと育っているのだろう。
その時、ガラス窓の木製サッシに雨が当たり湿気を含むとでる湿気臭い匂いがかすかにした。
まとまった雨の日々を過ぎると、夏がもうすぐ近くまで来ていることを思わせるような暑い日があったかと思うと、春に逆戻りしたかのような肌寒い日もあったり落ち着かない天気を繰り返した。
そんなある日のことだった。
私は外の倉庫への用事を思い出してサンダルに履き替えふらりと外へ出た。足元の草むらの中からは何という名前か分からないが虫の声が聞こえる。あたりはもう少しで真っ暗になりそうな夕暮れ時だった。玄関を出たところにある軽い段差を気にしながら、サンダルを引き摺るように数歩進む。その先は倉庫まではまっすぐだ。頭をあげると前を向いて歩き出した。その時だった。まっすぐ向かう前方に青白く点滅しているホタルがいるではないか。私は立ち止まった。ここ数日はホタルのことなどすっかり忘れていたが、あれはホタルだ!と一瞬で分かった。半信半疑だったし幻だと思っていたホタルについに出くわしてしまったという現実に一瞬ドキッとして心臓が止まりそうになった。それから背中を丸めると忍者のように忍び足で歩き出した。ゆっくりと静かに前に進みながら青白く光るホタルにそっと近づく。だんだんとあたりの薄暗さにも目が慣れてくると、ホタルは何かの草の葉に止まりながら青白い光を放っているということが分かってきたのだった。
「これは大スクープだぞ!」
私は心の中で大声で叫びながら今度はゆっくりと静かに後ずさりした。とりあえずは観賞するより知らせる方が先だ!青白い光から目を離さないように、しばらく後ずさりすると、音を立てないように忍び足で家の中へ戻り真由を呼んだ。
「ホタル!ホタルだよ!」
興奮して慌てる私の声を聞くと真由は飛んできた。
「えっ、もしかしたら見つけたの?」
私はうんうんと二度頷くと、左腕をいっぱいに伸ばし外の方角を指差しながら急いで!と目で合図をした。居なくなってしまったら大変だ。絶対に見てもらわなければ私までも見間違えたんじゃないの?、の一言で片付けられてしまうではないか。
真由は大慌てでサンダルに履き替えると、できるだけ音を立てないように注意しながら外へ出た。
「静かについて来いよ、あの辺の草につかまってるの」
私はさっき見た草のあたりを指差しながら真由の耳元で囁くように言った。
真由は、私の右腕を両手で掴んできた。そして私たちはぴったりとくっついて歩調を合わせながら、暗闇のなかをゆっくりゆっくりと音を立てずに忍び足でさっき見た草に近づいていった。
「あっ!光ってる!」
「……だろっ」
ホタルは同じ場所で青白く光っていた。私は安堵しながらもまだドキドキしていた。なんて美しいのだろう。そう思いながら二人は青白く光るその様子をじっと見つめていた。
光は一定のリズムを刻みながらゆっくりゆっくりと点滅を繰り返す。一瞬ふっと止まるがまた同じように点滅を繰り返す。時々ちらりと周辺に目をやるが、他にはホタルらしき虫は来ていないようだ。一匹だけで飛んで来たのだろうか。迷ってここにたどり着いたのだろうか。それにしても、すぐにでも飛び出しそうだ。もし飛び立ったら、もう一生見れないのではないか?一体どこから来たのだろうか?もしかしたらホタルではないのではないか?じゃあ何の虫だ?
青白い光を見ながらいろいろなことが頭をよぎった。
「あっ」
飛び立った瞬間思わず声が出た。ホタルは光を放たずに暗闇に飛び立ったらしく、どこへ行ったのかすら分からなくなってしまった。
「ああ、どこへいっちゃったんだろう……」
残念そうな真由の声が聞こえた。ほんとそうだよね、と私は答えながら、慌ててあたりを見回してみた。簡単には諦められなかった。もしかしたら飛び立った後に別の葉に止まり光っているかもしれない。まだそれほど遠くに行っていないはずだ。しばらくの間、あちこち探し回ってみた。
しかしホタルは見付けられなかった。
「やっぱりいるんだね」
家に戻ると私は真由に言った。
「自分の目で見るとは思わなかったよ……」
真由はそう答えたが、まだ興奮冷めやらずと言った感じでボーっと放心状態だった。
それにしても一体どこから来たのだろう。本当にホタルなのだろうか。私の頭の中では相変わらず同じことがぐるぐると駆け巡り続けた。
次の日の午後、少し空いた時間に外へ出た。暗くなるまでにはまだ早いが昨日の夕暮れの検証をしてみようと思い、ホタルをみた場所へ行ってみた。そこからぐるりと辺りを見渡してみて、一体どこから飛んできたと考えればよいか想像してみることにした。まさか道路沿いに飛んできたとは考えにくいだろう。障害が少ないので飛びやすいとは思える。ただカーブが多く、遠回りしている。田んぼや川からの距離がかなかなりあるから相当時間もかかるはずだ。ということは、裏山の中から直線距離で飛んできたと考えるほうが妥当なのではないだろうか。でも裏山と言っても、傾斜があるし、背の高い木や竹が生えている森だ。その上空を飛んでくるのも考えにくいだろう。そうすると、木々の間を抜け、アップダウンを繰り返してその中をくぐり抜けてきたのではないだろうか。
考えながら私は自然と足が裏山に向かっていた。この目でホタルが通ることができるかどうか、どんな森なのか、どんな風景なのか見てみたくなった。
ペンションの建物の周辺は山火事などに備えて毎年刈り込みしているので頻繁に足を踏み入れている。そのさらに上は随分前に、興味半分で上ってみたことがあった。そこには想像以上に背の高い木と竹が上空に向かってまっすぐ伸びている森が広がっていた。ほとんど光が射しこんでいない森だったからか、足元には草はあまり生えていなくてうっそうとした感じではなくすっきりしていた記憶があった。
私は裏山に作られた上り下り用のでこぼこした坂道をいつもより少し大またで上り始めていた。勢いよく上って敷地との境界を過ぎると雑草の生い茂ったままになっている場所に出くわし私は立ち止まった。夏に近づき、連日の降り続ける雨でぐんぐん伸びているのだろう。長靴こそ履いてきてはいるが、剪定ハサミなどは何も持っていない。半そでシャツだし、手袋もしていない。
「この先は今日は無理だなあ…」
私は目の前の勢いよく伸びた雑草とその先の森を呆然と見ながら思った。明後日は休みだから、ちゃんと準備をして出直そう、そう決めると山を下りることにした。
翌日は朝から小雨だった。
天気予報は雨ではなかったのになあ、と思いながら外を見ると景色はほとんど見えずに真っ白になっている。すぐ目の前の道路沿いに立つ電柱の姿かたちすら見えない。南からあたたかいゆっくりとした風が流れ込んできて、冷たい雨とぶつかり霧が発生しているらしい。
伊豆高原は、天城山など標高の高い山から吹き降ろす冷たい空気と海からのあたたかい風がぶつかる交差点のようなところで気候が変わりやすく、霧が発生しやすい。気がつくと真っ白な霧に包まれることがよくあった。
「ああ、今日は何も見えないですね、よくあるんですよ、ここは……」
訪れるお客さんは海一望の景色や星空を楽しみに来てくださる方が多いので、苦笑いで答えるしかなかった。でも、車で5分ほど道路を下って国道まで出るとウソのようにスッキリしていることもあるんですよ、という話をすると残念そうに聞いていた人もびっくりした顔になるのだった。
ボーっと窓の外を眺めていると、真っ白な雲のような大気が風に乗ってゆっくりと北へ向かって流れていた。
「明日は、天気は回復する予報だがらなあ。仕事が一段落したら準備を始めて少し歩いてみようかな……」
明日は何を持っていったらよいか、どうやって歩いていこうか。あれこれ思い浮かべながら、そっと目の前のガラス窓をあけてみた。空気は想像するより涼しかった。手をまっすぐ伸ばすと、大気中の水滴が冷んやりと感じた。
「私も手伝うわ」
翌日の午後、ひと通り仕事を終えた私は裏山を歩くための支度をしているときのことだ。真由は予想もしないことを言ってきた。
「大丈夫だよ。ちょっと見てくるだけだからさ。すぐ帰ってくるからさ」
私はそう答えたが、真由は怖いもの見たさで好奇心を掻き立てられたらしい。
「そういう訳にいかないわよ、あなた一人だと心配だし。どうしてもついて行くから」
真由はそう言いながら私の話には全く聞く耳を持たずに支度をどんどん進めている。私は何度も繰り返し、一人で大丈夫だよ、と口にした。
しかし実は心の中でちょっとホッと感じるものもあった。山へ入っていくと簡単にいうが、一体どうなっているのか、何があるのか、まったく分からない。何か動物に出くわしたり、変なものを見つけてしまった時はどうしたら良いだろうか。道に迷ってしまったり、薄暗くなってきて帰れなくなるなんてことになったら……。まったく情けない話ではあるが、考えれば考えるほどいろいろなことが頭をよぎったのも事実だった。きっと二人で歩いたほうが安心だし安全なはずだ。
「念のため懐中電灯は必要だな。それからあくまでも念のためだけど。お菓子とか飲み物も持っていった方がいいな。念のためだよ、念のため」
ホタルのことを解明したいという前向きな気持ちが大きかったが、自分でも良く分からないくらい弱気にもなっていた。念のため、と何度も言いながら小さなリュックを広げてあれこれと詰め込む自分がいた。
二人は、ホタルを見た場所に改めて立つと、私は飛んできたと思われる方法に向かってまっすぐ手を伸ばした。
「この方向だと思うんだよね。山の中はどうなっているか分からないけど、おおよそまっすぐにこの方向で飛んできたんじゃないかと思う」
私は二日前にここで考えたことを思い出しながら話し続けた。真由はうんうんと頷きながら私の話を聞くと、暗くなる前に早く行ったほうがいいよ、と言って私を急かした。
ゆっくりと山道を上り始めると、早速この前立ち往生した雑草がうっそうとした場所にたどり着いた。刈り込みをしている余裕はない。とりあえず手で無理矢理草を掻き分けながら気をつけて進むしかないだろうと考えていた。
「おれの後ろからついてきて。このまま掻き分けていくからさ」
そういうと真由は心配そうな顔をして私の背後に回り込んできた。私はゴム手袋をした両手でうまく草を掻き分け、しっかりと草の根元を足で踏み倒しながら進んだ。真由は私の踏んだ足跡を辿りながら、後ろから歩調を合わせてゆっくりとついてきた。
その時だった。草むらの中でガサガサ、といやな音がした。二人ともビクッと反応して立ち止まった。時期的に蛇かなにか小動物が出てきても不思議ではない。物音を立てないよう静止しながら音のした方向に目をやったがそれらしきものの姿はない。
「ああ、ちょっと不安になってきちゃったなあ」
真由はいきなりそんなことを言い出した。おいおい、スタートしたばかりだぞ、あきれたようにそう答えながらも、私も内心ドキドキしていた。相変わらず情けない話だが、一人で来ていたらこのまま前へ進んで行けたのだろうか。もしかしたら何だかんだと理由をつけてすぐに引き返していたかもしれない。こうして話し相手がいるだけでも随分と心強いものだなと思った。
「もうすぐ森に入るから」
元気付けるために私はそう言うと、背の高い木が頭上に現れはじめ、目の前のうっそうとした雑草は少なくなっていった。
「ここまでは来たことはあるんだ。大分前のことだけどね。ただこの先は全く分からないから気をつけないとね」
そういうと、今歩いてきた方向を振りかえった。ホタルを見た場所、登ってきた道から想定して進むべき方向を両手を広げながら確認した。
「暗くなる前にいっちゃおう」
真由は登る前と同じようなことを言って私を急かした。私が歩き始めると後ろについてきた。そして二人は森へ入った。
森の中は随分前に見た私の記憶と同じようにすっきりとしていた。背の高い木や竹が真っ直ぐ空に向かって伸びていて、先端についた葉が空を覆い隠している。そのため太陽の光が直接射し込まないので薄暗かったが、まだ懐中電灯が必要なほどではない。足元にはそれほど背の高い草も生えていなかったし、倒れた朽ちた木や大きな石が転がってはいたが、何とかまっすぐに進んでいくことができた。
しばらくは緩やかな上りだった。時期的にぬかるんでいる場所があったり、苔が生えた石があり足をとられそうになる。また意外と大きい岩のような石があってつまずきそうになる。足元に注意して前へ進みながら時々ふと前方を確認するのだがこの先はどうなっているのかまったく予想できなかった。上りはいつまで続くのだろうか、まだそんなに進んだわけではないとは思うが今の位置は一体どのあたりなのだろうか。進むべき方角は合っているのだろうか。方角を見誤らないようにするために後ろを振り返り来た道を確認する。もしもの時は来た道を戻らなくてはいけないだろう。
歩いていたと思ったら、立ち止まったり振り返ったり、落ち着きのない私を見てか、真由は急に不気味なことを言いはじめた。
「このまま道に迷っちゃたりしてね」
最近推理小説にはまっているらしく、日常を勝手に事件化しては勝手に解決することを楽しんでいる。いつもは笑いながら聞いていられたが、よりによって今日までそんな呑気なことを。
「伊豆高原で夫婦がこつぜんと姿を消した……なんてね。テレビのニュースになってさあ」
「いやいや、こんなに小さな山だから下ればすぐにどこかに出ちゃうからそんなことにはならないと思うよ……」
私はあわてて真面目に完全否定してしまった。そんなこと起こるはずがないし、全然慌てるところじゃないだろう。それなのにどこか本気でそうなってしまうような……そんな気がしてしまった。余裕のない自分に呆れた。
「上空にヘリコプターが飛び交ってさあ……青い服を着た捜査員がどんどん山の中に入ってきてさあ」
「おいおい、いつまでそんな……」
そう言い始めた時だった。目の前にふわりと光りながら飛んでいる何かが目に入った。
「もしかしたら私たちは、無理心中しに森の中へ入ったなんて思われ……」
「おい、冗談言っている場合じゃないぞ。今さあ、何か光るのが見えたんだぞ」
真由が話すのを遮ると、私はあたりに今さっき見た光るものを探しながら、すこし小声で吐きすてるように言った。
二人は黙り込んだ。それからあたりを見回した。それぞれが右へ左へすこし移動しながら光るものを探した。
「あっ、ホタルだ!」
真由の声が聞こえた。私はゆっくりと忍び足で真由に近づくと指差す方向に光るものを探した。すると背の低い草の上に止まったホタルが青白い光を放っていた。二人は更にそっと近づきじっと見つめた。点滅する青白い光は数日前に見たホタルとほぼ同じような気がする。やはりこの森の中を通ってきているに間違いないだろう。
「ここを通っているのか……。おれの予想通りだな」
私は刑事ドラマで事件の糸口が見えた時のセリフのような自信に満ちた口ぶりで呟くように言った。
ということは、このまま真っすぐに進んでいくと、天城山のふもとのホタルの棲息している辺りに繋がっていると言うことか……。この森の中にをホタルが飛んで来る道がある、というわけだな。距離的には少し遠いようにも思えるが、ペンションの周辺でホタルが飛んでいても不思議ではないのかもしれない。頭の中で周辺の地図を描くと点と点が少しだけ繋がったような気がした。
と、その時またホタルが飛んでいた。私は、また見つけたよ、と言うと、少し離れたところにいた真由も同じことを言った。
「えっ、そっちもいるの?あっ他にも何匹かいるよ」
森の中は少し薄暗くなってきていた。ホタルが飛び始める時間になってきたのだろうか。それとも光っているのがよく見えるようになったのだろうか。
「わあ、ホタルが何匹か飛んでいるねえ。すごいねえ。今日は一緒についてきてよかったなあ。こんなに早く見ることができると思わなかったからね。ということは、ホタルはこの森を通って来てるって分かったんだからもう戻ってもいいんじゃない?」
真由はホタルが飛び交うのを目で追いながら満足そうに言った。
「いや、もう少しホタルの来る方向に向かって進んでみたい。確認のためにね。もう少しでいいからさ」
私は何か物足りないものを感じてそう答えた。こんなに早くホタルを見れるとは思ってもみなかったのは私も同じ気持ちだ。しかしホタルが森を中を飛んでくる様子をちゃんと見ておきたかったのだ。そのためには飛んでくる方向に向かってもう少し歩いておきたかった。とは言っても、このまま天城山のふもとのホタルの棲息している場所までは時間的にも距離的にも歩いてはいけないだろう。それこそさっきの真由の思いつき推理小説のようなことが起こらないとは言い切れない。そうなると笑いごとでは済まなくなる。しかし少なくとも懐中電灯を持ってきたし食料も飲み物も持ってきた。もう少し進むくらいは大丈夫だろう。念のためにと持ってきたことがこうして背中を押してくれることになるとは。少しずつ森の中が薄暗くなっていくことに不安を掻き立てられたが、ここはもう少し先を見てみることを選んだ。
懐中電灯で照らしはじめた。森の中は一気に暗くなったように感じられた。私たちはホタルが飛んで来る方向を確認しながらさらに森の奥へとゆっくりと歩み出した。森の中は相変わらずちょっとしたぬかるみや石が点在している。石につまずいたりぬかるみに足を取られてフラフラとしてしまう。それでももう少しだから、もう少し進んだら引き返すんだから、と気楽な気持ちになっていた。
「ホタルはあ、どっちからだああ」
私は鼻歌を唄うように言った。
私のペンションとホタルが棲息する天城山のふもとと森の中でまっすぐつながっていて、夏が近づくとその森の秘密の通路を通ってホタルがやってくる。ふわりふわりと暗闇の中を光を放ちながら飛び回ったり、時々ふっと草にとまって休みながら。なんてロマンティックな話なのだろう。ホタルの命は短いと言われている。その儚い命がこの森の中を……と思うさらに愛おしく思えてきた。
「そろそろ戻ってもいいかもしれないな」
私たちの目の前でも何匹ものホタルが飛び交うのを見ながらそう思いはじめたその時、急に不安が襲うと立ち止まった。どうも、方向が違うのだ。進んできた方向から左へ大きくズレている。
「なあ、ホタルの飛んで来る方向が全然違うような気がして……」
私は振り返ると後ろにいた真由に言った。
「そうかなあ」
ちょっと疲れてきたのだろう。一言だけボソッとそう言った。
いや完全に違うだろう。ちょっと迂回している、ということでもなさそうだし。一体どこからホタルは飛んで来ているのだろう。予想もしていなかった展開に、さすがに本気で不安になってきた。このまましばらく天城山のふもとのホタルが棲息すところまで真っすぐ進むのであれば納得して気持ち良く引き返していただろう。
解決に近づいたかのような気がして完全に楽観視していただけに、気持ちが一気に重くなってきた。
このままホタルが来る方向に向かって歩くべきかどうか……。のんびり悩んでいる時間もない。周辺はかなり暗くなってきた。引き返してまた出直した方が良いのだろうか。
懐中電灯で足元を照らしながら、二人とも黙ったまま動けなくなった。戻るべきか、先へ進むべきか。沈黙した時間は随分と長く感じられた。
その時だった。風の音すら聞こえて来ない静かな森の中に、何かがすかに聞こえたような気がした。二人は聞き耳を立てた。
水の音だ。
水面がかすかに揺れているような音だ。それも水溜まりという感じではなく池のような大きさと深さがあるような音だ。そこへ涌き水でも入り込んできているのだろうか。それとも何かがぽとりと水面に落ちた時にでた音だろうか。
「近いよ。この水の音」
私はそう言いながら側にいた真由を見ると目があった。私の異変を察知したのか真由は私をじっと見たままだ。その時私は無意識のうちに音のする方向へと歩き出そうとしていた。真由はすかさず私の腕を両手で掴んできた。
私は足元を照らすとゆっくりと歩きはじめた。真由は歩調をあわせながらついて来た。
時折目の前をふわっとホタルが通り過ぎる。青白い光を放ったままで宙をさまよっている。顔をあげて周囲を見渡すと何匹も飛んでいるようだった。
ほのかな光に導かれるようにゆっくりと歩いた。
一体どういうことなのか、いま何が起きているのか、この先何がおきるのか、全く理解できずに、胸はドキドキしていた。それでも不思議なことに足は前に進んだ。足元の石やぬかるみにフラフラと足を取られながら。
「わあ」
「なにこれ」
突然だった。
私は口を開けたまま呆然と立ちすくんだ。
懐中電灯で照らされた目の前には水面が広がっていた。公園にある砂場ほどのこじんまりとした広さで、ちょうど背の高い木々の隙間から差し込んだらしい薄暗い光が水面がぼんやりと照らしていた。風はまったく吹いていなかったが水面はかかすかに揺れている。そこには落ち葉だろうか、何かが浮かんでいてゆっくり水面を動いていた。
その周辺をホタルが青白い光を放ちながら飛び交っている。数えきれないくらいだ。宙に何かを描くように右へ行ったり左へ行ったり、追いかけっこでもして遊んでいるように上へ行ったり下へ行ったり。水面の周辺の草や葉にとまったり、飛び立ったり、ふっと光が消えるとどこへいったのわからなくなったり。
今だかつて見たことがない美しい景色だった。
夢ではないかと思った。
あまりにも美しくて幻想的で、しばらく私も真由も黙ったまま時間が経つのも忘れてその光景を見つめ続けた。
ふと、真由を見た。飛び交うホタルを目で追いかけていた。時々目を見開いて驚いてみたり、口を半開きにして笑ったり、幸せそうな顔をして目の前の光景を見つめていた。
私はその横顔に思わずドキッとした。美しかった。その横顔は真由と出会った頃や、伊豆高原に住みはじめた頃など大切な瞬間を思い起こさせて、私を幸せな気持ちでいっぱいにしてくれた。
そうか!
今こうしてふらふらと薄暗い森の中をさまよっている私たちはまるでホタルみたいだ。
ホタルが光るのは仲間とのコミュニケーションのためだとか、愛のメッセージだとか言われている。脱サラしてふわりと自由な世界に飛び出した私たちは、先の見えない仕事を始めて彷徨いながら愛する人と助け合い、話し合いながら楽しく生きていた……、まるでホタルみたいだ、と。
ホタルと私たち夫婦の人生が重なった。
その時、ふわりと私たちの目の前に一匹のホタルが現れた。手が届きそうだ。私は思わず両手をゆっくりと前の方へと突き出した。掌をあわせておわんのように丸く広げた瞬間、その中入ってきてちょこんととまった。真由に見せようと思ったら、私の様子をずっと見ていたらしく目を見開いて笑っていた。私の掌の中でホタルはしばらくの間青白い光を点滅させていた。私はその姿をじっと見つめた。それから話しかけてみた。ここから来てたのかあ、おまえたちは……。
と、その瞬間ホタルはふわりと飛び立った。青白い光を一生懸命に放ちながら。儚い人生を楽しめよ、と言われたような気がした。