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長い長い鉄道の旅を経て、ようやくわたしが最寄りの駅に着いた頃にはもう、空はどっぷりと夜の帳に包まれていた。大学生活ではあまり鉄道を使わないから、馴染みの駅という訳ではないけれど、それでも自宅の近くに帰って来れたという安心感がようやくわたしを生きた心地にさせてくれる。
まったく、なにがなんだかさっぱりだけど、一夜の内に九州に運ぶくらいなら、移動中寝てる間に家に帰してくれてもいいのに。
尤も、目が覚めたら知らない場所にいたあの時の恐怖と心細さで、とても寝入る気にはならなかったのだけれど。
とにかく、早く家に帰ろう。足元に気を付けてわたしは早足に自宅を目指す。これは乗り換えの時に気付いたことなのだけれど、卓さんから借りた靴、微妙にサイズが合っていないのだ。履いたばかりの時は紐をキツくすれば意外にいけると思ったんだけどなぁ。さすがに見込みが甘かった。
そして、本当の見込みの甘さはこんなものではなかったということを、わたしは自宅の目の前で思い知らされることになる。
「しまった……鍵も部屋の中だ……」
ついに帰って来れたと思った矢先の、この仕打ち。毎日家主を迎え入れてくれたドアも、鍵を開けることができなければ無慈悲に締め出す。いつもこうしてわたしの生活を守ってくれていたことには感謝したいところだけれど、今日ばかりは恨めしく思わずにいられない。
しかも、携帯も部屋の中なので卓さんに無事帰り着けた連絡もできない。せっかくわたしを信用して、服や高額のお金まで貸してくれたりとたくさんよくしてくれたのに……
いつまでも部屋の前に立ち尽くしていてもどうにもならない。アパートの管理会社もすでに閉まってるだろうし、こうなるとわたしが頼れる存在はもう限られる。
(お願い、どうか部屋にいて……!)
再び心細さに押し潰されそうになる。今日一番わたしを不安にさせた会話が頭の中を何度も反復する。
今朝、卓さんに携帯を借りて、母親に電話をかけた時の会話。
『はい、もしもし?』
『あ、もしもし。わたし、こだま。いきなりごめん。今大丈夫?』
『こだま? ……あの、どちらさまですか?』
『え? あの、だから、こだまです。板囲こだま。ちょっと訳あって人から電話借りてるんだけど』
『なに言ってるの、そんな訳ないでしょ』
『え?』
『本当にこだまなら、その携帯から電話をかけてこれる訳がないって言ってるんです』
『え、あの……お母さん? 何を言ってるの?』
『私はあなたのお母さんになった覚えはありません』
ここでわたしはかけ間違えたかと思って通話中の番号を確認した。しかし、3回読み返しても確かにそれはお母さんの携帯に繋がる番号のはずで。
『もう、冗談やめてお母さん。お願いだからわたしの話を聞いて』
『いったいどういうつもりですか? その携帯はどうしたの? お言葉ですけどね、こんな汚いことばかりしてるといつか痛い目を見るのはあなたですよ。恥を知りなさい、卑怯者』
こんな感じで、わたしのことを詐欺師か何かと思い込んだらしいお母さんにはなにを言ってもまったく取り合ってもらえず、わたしが置かれた状況すら伝えられぬまま、ついに私の方が耐えきれなくなって通話を切ってしまった。
そんなことがあったせいで、実家に寄る勇気がどうしても湧かなくて、実家を素通りして直接こちらに帰ってきてしまったのである。
だって、この町には何があっても信用できる、大切な人がいるから。
その人の住むアパートが見えてきた。よかった。部屋の電気は点いている。居ても立ってもいられず、靴が足に合ってないことも忘れて必死に階段を駆け上がる。一秒でも早く、なによりもあの人の顔が見たかった。いつもと装いが違うから変に思われるかな、などという気掛かりもとうにどこかへ消えていた。
着いた。息を整える間も惜しんでインターフォンを押す。部屋の中で人の動く気配。ガチャリと音を立てて鍵が外され、中からその部屋の家主が顔を出した。
「――タケちゃん」
やっと会えた。わたしの誰よりも知っている人で、そして誰よりもわたしのことを知ってくれている人。大好きな彼。
感極まって玄関先なのも構わず抱き付きそうになって、
「……あー、えっと」
タケちゃんの反応が鈍いことに気付く。いつもはどんな時でも笑顔で迎えてくれるのに……連絡を入れずに来たから、もしかして怒ってるとか……? いや、それよりも、なんだかピンときてないような、薄い反応。
嫌な予感がした。今朝のお母さんの時に似た空気。
ふと、タケちゃんの影から別の人影が動いた。とても小柄なその人物は、訪問者が気になるのかおずおずとこちらの様子を窺い、
「……しぃ、ちゃん?」
その少女が一瞬、タケちゃんの姉の椎ちゃんに見えた。次の瞬間、
「だ・か・ら! ちっがーう!!」
突然少女が顔を真っ赤にして吠えた。確かに、遠目には顔も椎ちゃんとそっくりだし、体格も似てるけど、よく見ると椎ちゃんはこんなに顔も体も肉付きが引き締まっていない。
「おい、近所迷惑」とタケちゃんに窘められ、ぷぅと頬を膨らませて不貞腐れる、何故かタケちゃんの部屋に、タケちゃんと二人でいた、謎の少女。
「ねぇ、タケちゃん……」
――この子はいったい、誰なの?
そんな疑問を視線で訴える。
タケちゃんははぁ、と溜め息を零して、
「で、今度はどちらさまでしょうか」
最初は何を言われたのか分からなかった。
ただ、今日はもう色んなことがありすぎて、少しの震えも来なかった……