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『あの……タクさん?』
風呂場の頑固な汚れと夢中で格闘していたとき、締めきったくもりガラスの向こうからこだまさんが声をかけてきた。張りのない声には、恐る恐る、といった雰囲気を感じた。
必要以上に気を遣わせたくなくて、俺は努めて明るい声で返す。
「はい! あ、なにか要りますか!? ちょっと待ってくださいね今このカビ畜生にウチの風呂場に無断で住み着いたことを死ぬほど後悔させてから葬り去るところなので!!」
さすがに狙いすぎたかと言ってる途中で恥ずかしくなったが、少しの間を置いてくもりガラス越しにくすっと笑い声が聞こえてきたので、内心ガッツポーズ。
『えと、少し洗面台をお借りしたいんですけど……』
「ああ。いいですよ! この野郎中々頑固者っぽくて、俺の方はもうちょっとかかりそうなので、俺のことは気にしないで大丈夫です!」
こだまさんの声が少しだけ元気を取り戻し、なんだかこっちまで上機嫌になってしまう。
自分がどこか浮ついているのを自覚しつつ、俺はカビに狙いを定めて洗剤を染み込ませたスポンジをコシュコシュ泡立させた。ふと視界の隅に入った鏡を見ると、実に楽しそうにニヤけている自分がいる。
(なんだてめー、気持ち悪い笑い顔しやがって。なんがそんな嬉しいんだ?)
小さく呟き、鏡の中の自分をからかうように泡の付いた指先を向ける。
そのとき。
「あ、タクさん。えっと、お風呂掃除するなら、換気はちゃんとした方がいいですよ」
と言ってガチャッとこだまさんが風呂場のドアを開けてきた。
ピシ……と固まる俺。
幸いこだまさんは顔をドアの縁に隠していたのでこの黒歴史現場を目撃されることはなかったが。
「あ、どうも。そうでした。ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、色々ご迷惑おかけしてしまっていて……じゃあお借りしますね」
蛇口を捻ってばしゃばしゃと顔を洗い始めるこだまさん。うちは風呂場の正面に洗面台があるので、ドアが開いているとその様子が鏡越しに映る。
俺は鏡を視界の隅からも追いやって、無心でジュワーと溶けていくカビを看取り続けた。