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じわり、とこだまさんの瞼の奥から滲んできたものを俺は見逃さなかった。目の前で女性に泣かれるなんてこれまでの人生で経験がなく、大粒の雫を目にした瞬間思わずドキリとした。なんというか、喩えようもなく胸が押し潰されるような感覚。
「ちょ、おわっ」
動揺がつい口を衝いて出、それが耳に届いたのかほんの僅か茫然としていたこだまさんも我に返る。様子のおかしい俺を見てこだまさんはすぐに自分の目頭に溜っている涙に気付いたようだった。
「あ、ご、ごめんなさい……ちょっと、やだ……」
他人に泣いている姿を見せるのには抵抗があるのだろう。それもよく知らない男の前だ。こだまさんは必死に涙を堪えようとする。
しかし、大きめな二重瞼からはどうしようもなく涙が溢れ出てくる。誤魔化すようにこだまさんは乾いた笑いを漏らした。
「そのわたし……えっと、あはは、やだほんと……あの、少し……すい、すいません……ごめんさない、ごめん、なさい……」
最後は弱々しく謝罪の言葉を繰り返しながら、立てた膝に額を押し付けるようにして俯いてしまう。頼りない小ぶりな拳が震えるほど、必死に羽織っていた掛け布団を握り締め、それでも嗚咽を隠し通すなんてとても無理だった。
これ以上ここにいてはダメだ。
直感でそう判断した俺は反射的に部屋を見渡し、目的の物を見つけると自分でも気持ち悪いと思う機敏さでそれに飛びつき、
「こ、これ! よかったら!」
と声をかけて、泣き咽ぶこだまさんの掛け布団から覗く足のつま先に触れるくらいの位置にそれを置くと大急ぎでキッチンの方へ駆け込んだ。
部屋とキッチンを隔てるドアを閉めてもまだこだまさんの嗚咽は耳に届いてしまっているが、たぶん、だいぶマシにはなったと思う。うん、なにがって感じだけど、とにかくこれでいいハズだ。主に俺の心のライフポイント的に。うん、そういうことにしよう。深く考えたらキリがないやつだこれは。
……しかし、どうしたものか。
(まさか、関東とはね……)
この期に及んでこだまさんが嘘を吐いているとは思えないし、なによりあの様子はどう見ても演技には見えない。まあ大声出されたときに一瞬その道の人を疑ったりもしたけど、これまでのやりとりでこだまさんに対する懐疑心は消え失せてしまった。今更それを蒸し返す気にもならない。
すると、彼女は昨晩関東の自宅で就寝し、朝起きたら九州の俺の部屋にいたということになる。
それは恐ろしい体験に違いない。身の周りの物も手元になく、目が覚めたら突然見知らぬ土地の見ず知らずの男の寝床の中。立場が逆だったらと思うとゾッとする。こだまさんがああなってしまうのも無理からぬ話だろう。
けれども、現実的にこんなことって起こり得るのだろうか?
(いったい全体、なにが起こったんだろうな……?)
ここでいくら考えたって、何も解決しないことぐらい分かっている。だが、突拍子もない空想話でもいいから、解決の糸口を模索せずにはいられないのだ。
だって、真面目に思索を巡らすフリをしないと……
目の前に横たわっていた寝起きの顔が――
胸元の襟口から見えた綺麗な白い肌が――
スタイルのいい寝間着姿が――
手入れが行き届いた眩しい足先が――
ていうかこだまさんって結構美人だよな。
「よーしちょっと洗い物溜ってきたしついでに水回りのお掃除でもしちゃおうかなあ!!」
甘酸っぱい青春の思い出がなくたって、気になる女の子に心当たりがなくたって。
興味がない訳じゃないんだよジーザス!!
どこぞのタケちゃんとやらごめんなさい! あと爆発しろ!!
色んな邪念を普段つい溜め込みがちな家事にぶちまけて、俺はこだまさんが落ち着くまでの時間を潰した。