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「えー。一先ず、落ち着いたということで。少しお話合いをしたいと思うのですが」

 そう告げる男性と目を合わせないようにして、わたしはぎこちなく頷いた。互いの位置は部屋の端とベッドの上。それぞれ正座と、掛け布団に籠る防衛体勢。

 警戒心を解く様子の無いわたしを見て幸せが逃げていきそうな溜め息を吐きつつも、男性は前向きに話し合おうという姿勢を崩さない。いかにも扱い難そうな顔で仕切ろうとする男性からは、今すぐわたしをどうこうしようとは思っていない、ということは感じ取れた。

 かと言って、疑いの念は晴れないけど。そうやって油断させるつもりなのかもしれないし。

 ……まあ、ベッドと掛け布団を何も言わずに明け渡してくれていることには、少しありがたく思わないでもない。見下ろす位置にいるだけでなんとなく優位を譲られている気になるし、なにより、こちらは昨日寝入った時の姿のまま――つまり、寝巻き姿なのだ。他人には、特に、タケちゃん以外の男の人にはあまり見られたくない。

「そうだな、取り敢えず初対面でいきなりあんた呼ばわりは失礼でした。すいません。一応ここからは、こだまさんと呼ばせて貰ってもよろしいでしょうか?」

 居住いを正し、まずは非礼を詫びてくる。そして、一旦お互いの距離感を再定義し直すような確認は飽く迄下手(したて)

 男性にも言いたいことは色々ありそうだけど、彼の言う「落ち着いて話し合う」為に必要な譲歩を最大限してくれている辺り、意外に紳士なのかも――て、こんな相手に簡単に好感持っちゃダメでしょ、わたし。

 抱きかけた印象を散らそうと頭を振ったら、「えぇー……」目の前の男性はもう勘弁してよと言わんばかりに顔を顰めた。

 しまった。別に呼び名を拒否するつもりじゃなかったのに。慌てて否定を否定して肯定に訂正する手振りで否定して慌てて何度も首肯する――うん? なんだか訳が分からなくなった。

 わたし、未だ混乱醒めやらぬ。冷静になれって方が無茶だという方向で納得しておいた。

 とにかくわたしの返事をなんとか汲み取ったらしい男性は、いいということにしておこうといった感じで戸惑いを飲み込んで、手探り手探り話を次へ進める。

「で、えーと。俺の名前がまだでしたね。板囲卓といいます。周りからはよく苗字の終わりと名前をくっつけてイタクって呼ばれますが……まあ、あだ名使うのも変なんで、苗字でも名前でも、呼び易い方で呼んで下さい」

 ここでようやく男性の名前が判明。その名前に一瞬ドキッとして、思わず、わたしは聞き返していた。

「イタイ……?」

「おおぅ、いきなり呼び捨てかよ……別にいいですけど」

「あ、いえ、そうじゃなくて」

 早速せっかく測り直した距離感を破るような女とは思われたくなくてすぐに訂正を入れる。

「わたしも、板囲なんです。板囲こだま」

 こんな偶然ってあるだろうか。同じ苗字の人なんてそうそう会わないから、つい親近感が湧いて素に戻ってしまいそうになる。それは相手も同じようで、わたしのフルネームに、え-と、タクさん。は、パッと陰鬱な表情を明るくさせた。

「まじすかっ。へえ、どう書くイタイさんですか? あ、ウチのは、板で囲うって書くんですけど」

「あ、同じですっ。板で囲う。と、ひらがなでこだま……」

 ――て、なに積極的に自己紹介しているんだろう。そんな名前の書き方なんて個人情報、与える必要ないのに。

 でもタクさんの顔が――最初に見た時からそんな印象はあったけど、明るい表情になったことで凄い童顔が顕著になって、同姓を見付けて嬉しそうな表情はなんていうか……かわいい。大学生って言ってたから同年代のハズだけど、顔だけ見たらまるで中学生だ。そのせいで警戒心に刺が生えたような痛みが伴って、保ち続けなくちゃいけないのに、いっそ手放してしまいたくなる。

 うー、調子狂うなぁ……

「へー。じゃあ本当にウチの妹とは同姓同名なんですね。凄いな」

 すっかり(こじ)れを忘れたような顔で感心するタクさん。そういえば妹と見間違えてわたしの名前を呼んだとか言ってたっけ。でも言われてみれば、タクさんこそわたしの妹のひかりとよく似てる。笑顔の時の目元や頬の緩み方なんかそっくりだ。今じゃあんな明るい顔、わたしに向けてくれないけど。ひかりも昔はこれくらい可愛げがあったのになぁ……

「えーと、ちなみにタクはあの卓です」

 そう言ってタクさんが指さしたのはテレビから1mくらい手前に置かれた背の低い卓だった。

 ナニ言ってるんだろと一瞬首を傾げそうになって、ああ、名前の漢字の話か、とすぐに合点がいった。下の名前の書き方まで教えたわたしに、律儀に応えてくれたようだ。

 つまり、板囲卓。

 わたしにとってはまたさらなる凄い偶然の発見だった。まあ、それを言ってみたところで「で?」っていう話なので、卓さんなら嬉々としてくれそうだけど、喜ばせてあげる関係とは寧ろ真逆のハズなのでここは黙っておくことにする。

「それで、こだまさんが言うには、昨夜普通に自宅で寝ていて、朝起きたら突然俺の部屋にいたってことですけど」

 一段落着いたところで、卓さんが表情と共に話題を核心へと切り替える。わたしも背筋を伸ばし、意識を真剣に切り替えた。一呼吸置いてわたしを一瞥してから、卓さんは推理を始める探偵のような仕草で、

「そうなると誰かがこだまさんをここに連れてきて部屋に入り、置いてったってことになるんですよね……俺も昨日は確かに戸締りして寝る時は一人だったので」

 と、敢えて二人の意見の両方が通る状況を仮定した。

 次いで卓さんは徐に立ち上がり、窓へ向かってカーテンを少し開ける。その真ん中の鍵がしっかり施錠されているのを、わたしにも確認するように目線を配って示してきた。確かに、と頷くわたしに卓さんも頷きで返し、今度は部屋を出ていく。その際開けっ放しになるように大きく開いたドアから意図を察し、わたしは卓さんの姿が視界から見えなくならない程度に後を追う。開け放したドアから玄関を覗くと、卓さんはわたしが見ていることを確認してから、手振りでまだドアには触れていないことをアピールしつつ、体でノブを隠さないようにできるだけ土間から離れた位置で手を伸ばし、ノブを握ってドアを引っ張る。ガツンと鍵がつっかえた音が上がった。さらに何度かノブをガチャガチャ回しながらドアを押したり引いたりして確実に施錠を確認した上で、さらにチェーンも引っ張ってちゃんとかかっていることを示す。確認の意を首肯で返すと、卓さんは一先ず共通認識ができた事に安堵したような息を吐いて、こちらへ戻ってくる。ので、わたしは急いでベッドの上に退避した。

 頑なに警戒を解かないわたしのことには触れず、またわたしに合わせて部屋の端へ戻る卓さん。ただし、姿勢は正座から胡坐(あぐら)になっていた。

「とまあ、こんな訳で。誰かが連れてきたってなると密室トリックになっちゃうんですよね」

 と言ってお手上げポーズを取る卓さん。わたしは相手を傷付けるだろうかと心配になる心理が働いているのを自覚しながら、最初からの主張を再度唱える。

「だから……え、と、卓、さんが、寝ているわたしを誘拐したんじゃないかって」

 いつだって初めてその人の名を呼ぶ時は少し緊張する。それでこちらが感じている相手に対する距離感を告げているような気になって、それが相手にとって馴れ馴れし過ぎたり、或いはよそよそし過ぎたりしやしないかと、その一瞬で不安が溢れるから。特に今回の場合、異性だしいきなり下の名前は変かと思って、本当は苗字で呼ぼうとしたけど、わたしも板囲で、ややこしくなるかなと考え直して、でもいきなり下の名前はやっぱり少し緊張して、詰まってしまった。

 なんて、考えすぎてるかなと思うくらい、卓さんはわたしの主張に即答だった。

「もしくは、こだまさんが不法侵入したかじゃないと、説明がつかないんですよ」

「わたし、不法侵入なんかしてません」

「俺だって誘拐なんかしませんよ」

 即答に即答で返すとさらに即答してくる。しかも、むっとして自分の主張だけをそのまま反論に使うわたしに比べて、言葉面だけでもこちらの言い分を受け入れている相手の方がなんだか冷静に聞こえた。話は平行線を辿りながらも、旗色悪く感じて居心地が悪い。

 落ち着きなく身動(みじろ)ぎながら返す言葉を探している隙に、卓さんからもう一歩踏み込まれた。

「だいたい、こだまさん家どこなんですか?」

「それは……」

 さすがに、初対面の男性に教えるには抵抗のあることだ。ようやく進展の兆しが見えそうな話の腰を折るのには罪悪感を覚えるし、もう相手を誘拐犯と疑うのに確信も持てなくなってきているけれど、一人暮らしの若い女性として、最低限の警戒心だと思って貰いたい。

 卓さんもそれぐらいのことは重々承知のようで、申し訳なさそうに頭を掻いている。それでも、彼は解決に向けてわたしを窘めにかかる。

「こだまさんがどこから来たか分からないと、帰って頂く事もできないんですけど」

 しかしその言葉は聞き捨てならなかった。昔から方向感覚はいいと自負しているわたしは、現在地さえ分かれば、どこからでも自力で帰れる自信があった。だから、「帰り方を教えてあげなきゃダメでしょ?」みたいに言われると屈辱的な気分になって、わたしは腹が立ってしまう。

「ここがどこだか分かれば、帰れます。土地勘は働く方なんです」

 ムキになって答え、携帯だってあるし……と、言おうとしたところでようやく気付く。わたしは今、寝入った時の着の身着のままで何故かここにいる。

 つまり、机の上で充電中だった携帯は手元になかった。ついでに財布もない。

「その格好でですか? こだまさんの言い分なら、当然着替えなんて持ってきてませんよね」

 追い打ちで付け加える卓さんの言葉に、絶句。反論の余地はなかった。

「埒が明かないな……まここがどこだか分かれば帰れるって言うなら、そうして貰えるとありがたいですね。服とかお金は……最悪貸しますよ。返済不履行を想定の上で。服に関しては、彼氏さんがいるみたいですけど俺ので勘弁して下さいね。お生憎様俺にはこんな状況で服を借りられるような女性に知り合いはいないもので」

 ショックを隠せないわたしを尻目に、言質を取った卓さんはさっさと話をまとめにかかる。そこはかとなく言葉の端に含まれた刺から、間違っても機嫌が良くはないだろうことが窺えた。ああ言えばこう言うわたしにいい加減うんざりしているのかもしれない。

 気持ちに拠り所がなくなったわたしは、今更になって後悔した。考えてみれば、この二人共何が起きたのか分からない状況で、わたしは自分のことばかり考えて、卓さんを拒絶してばかりで、それでもタクさんは事態に収拾を着けようと頑張って善処してくれた。彼のように自分の感情を抑えて冷静に話し合いに臨めれば、こんな後味の悪い方へ事は収束しなかったのに。

 せめて別れ際には、謝罪と感謝を告げてここを去ろう。

 そう腹を決めて卓さんと改めて向き合った時、それまで饒舌に動いていた卓さんの口がピタリと止まった。そして唐突に天を仰ぎ、まるでなにか取り返しのつかない失敗をしたことに気付いたかのように額に手を当てる。

「Oh、ジーザス……しまった……俺はバカか……」

 なんかブツブツ言ってる。意味が分からない。

「あ、あの……卓さん?」

 取り敢えず何か声をかけた方がいいかと思って名を呼ぶと、卓さんは意を決したように深呼吸してから、何故か胡坐から正座に姿勢を直し、

「こだまさん……」

 神妙にわたしの名を口にする。

「はい……?」

 つられて背筋が伸びるわたし。卓さんは一句ずつ吸気を挟みながら、

「真に聞きづらいことなのですが……」

 歯切れ悪く切り出した。

「はい……」

 一体何が告げられるのだろうと身構える。卓さんは慎重に言葉を選びながら、

「もちろん俺はこだまさんを連れ込んだ覚えはないし、これから帰るこだまさんについて行ってこだまさんの家を特定してやろうとか、そういうことをするつもりもないのですが……いやまあ、差支え無ければ途中までお送りしますけど」

「は、はい……あ、いえ、ご心配なく。多分、大丈夫、だと思います」

「ああ、そうですか。了解です」

 はい。はい。とかみ合わない歯車みたいにぎくしゃく応答。そうして見送りの話はもういいとして、

「それで、その……ですね。この部屋を出た後で、あーなんと言うかそのー……」

 ここからが言い難いことの本題らしい。卓さんは重そうに口を開閉して喉まで出かかっている言葉を吐き出そうともがく。

 何度かもごもご言ったあと、結局、不味い物を飲み込み切れず戻すような感じで、卓さんは続きを紡ぎ切った。

「ケーサツに駆け込んだりとかー、そういう気……もう、ありませんよね……?」

 わたしの顔色を見上げるその眼差しは、叱られて親に縋る幼子のような目をしていた。

 あぁ、そっか。だからこの人、最初から妙に下手(したて)だったんだ。

 真っ向から相容れない意見にうまく折り合いをつける為に冷静になってたんだと思ってたけど。自分のことばかり考えてたのはわたしだけだと思ってたけど。

「ぷっ、あははは!」

 込み上げてきたものが抑えきれず、わたしは吹き出した。

 だって、全然そんなことなかったから。ホント、男の人って大変。女の人と何かこの手の揉め事に巻き込まれたら、不利なのは断然、男の人の方なんだもんね。

 要するに卓さんは卓さんで、自分の無実を主張しつつ、わたしの機嫌を悪化させないようにするのに必死だったってだけだったのだ。

 突然笑い出したわたしに不審な目を向けつつも口を一文字に結んで返答を待つ卓さん。この短い間でのやり取りは多分これまでの初対面の中で飛びっきり最悪だったけれど、不思議ともうわたしは、彼が非人道的なことをするような悪人だとは到底思えなくなっていた。

「あはは、すいません。なんか、おかしくなっちゃって。大丈夫です。どうして朝目が覚めたらここにいたのかは分からないですけど、でも。もう卓さんのこと、疑ったりなんかしてないですから。どう理屈をつけたらいいのか分かりませんけど、きっと今回、被害者は卓さんとわたし、両方です」

 素直にそう答える。同時に信用を行動で示す為、体に巻き付けていた掛け布団を羽織る程度にまで緩めた。卓さんは、今日一番の難関を乗り越えた、安心しきった笑顔になって脱力し相好を崩す。

「なんか……ようやく生きた心地がしてます。ははは……」

 思わず零れ出てしまったといった卓さんの乾いた笑いに、わたしも微笑を零す。いつの間にか仲のいい友達のような雰囲気になってて、どうしてこうなったのかおかしいことだらけだけど、でも、悪い気はしない。

 しかし。

「で、ここがどこかって話でしたね」

 と、卓さんが話を戻し、その口から告げられたこの土地の名と思しき単語は、

「……え?」

 まるで聞き覚えのないものだった。

 心当たりのなさそうなわたしの様子に、卓さんも目を丸くする。しかしそれはわたしの戸惑い程深刻ではなく、近所でも地元の人じゃなければ三つ隣の町の名を知らない、一人暮らしを始めて日が浅い大学生あるあるの反応と捉えたようで、なんでもない風に続ける。

「あれ? もしかして県外出身の人ですか? もしかして本土とか? 俺も地元本土で、こだまさんこっちの人の訛りがないからそうかなーとは思ってましたけど。じゃあこだまさん家はこの辺じゃないのかな。まあでも市内なんで、町まで出られれば大丈夫ですよね」

 きっとこの辺りでは通じるであろう代名詞が混じった表現。市内と言えばどの市なのか、町と言えばどの町なのか、単にそれだけで伝わる場所があるのだろうけれど、わたしが一年半過ごした大学生活でそんな代名詞を問答無用で独占するような場所には心当たりがなかった。

 なにより、最も注目すべき単語が他にある。

「あ、あの、本土って……」

 出身の話をしてても、まず出てこない単語だった。少なくともわたしがいた所では。

 なにかを察して、卓さんの顔が凍り付く。まさか、と小さく動いた彼の口をわたしの目は無視してくれなかった。

 のっぴきならない不吉な予感が空気を不穏なものへと変貌させる。不意に卓さんは壁にかかった時計に目を遣やった。そして、徐に卓の上にあったリモコンを手に取り、テレビを点ける。チャンネルを回すと、丁度国営放送のローカル支局が天気予報を始める時間だった。

 そこに映っていた地図を見て、わたしは愕然とする。

「九州……?」

 の、熊本県K市です。と卓さんは付け加えた。

「今度こそ真剣に聞きますけど。こだまさん、昨夜あなたがいた所、どこですか?」

 テレビ画面に目を釘付けにされながら、麻痺しそうになる頭でわたしは現住所を思い出す。

 テレビの中で、見慣れない天気予報士が告げた今日の日付は間違いなく昨日の明日で、画面左上に表示されている日付もこの九州の天気予報が今日のものだと伝えている。

 でも、わたしが昨夜までいた場所は……

「茨城県T市……関東、です」

 現実は、現実的に有り得ない状況だった。


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