表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

Short Short Circuit

束の間の

作者: 境康隆

 彼女は彼から山への誘いを受けた。

 本格的な登山という訳ではない。

 彼が誘ってくれたのは、歩いてでもいける山際の市民公園だからだ。

 そこは開けた見晴らしが、素晴らしいと聞く場所だ。それでいてこの市内の人間なら、誰もが一度は訪れる身近な公園だった。

 彼はその公園にいこうと彼女を誘う。君に見せたい光景があると彼女を誘う。

 彼女はもちろん喜んでその誘いに乗る。

 それは束の間の自由だからだ。

 彼女はそんな身近な公園すら、いったことがなかったからだ。

 二人は公園にくるや、高台に向かった。

 見晴らしのいい高台だ。見晴らしがいいのは、そこが切り立った崖だからだ。

 彼女は道すがら、早くも遠目に見えた、鉄柵の向こうの景色に感嘆の声を上げる。

 彼女には自由がない。いつも外に連れ出してくれるのは彼だけだ。

 成功者ではあるが、それゆえに頑迷な父の機嫌をとってまで、彼女を自由にしてくれるのは彼だけだった。

 そう、束の間の自由をくれるのは彼だけだ。

 父はいつも彼女を繋ぎ止めようとする。束縛しようとする。

 彼女はまるで、いつまでも手を握られた幼子だ。

 そう、父が彼女の手をつなぎ止めている。

 彼女を放すまいと掴んでいる。

 彼となら――

 一度芽生えたその思いは、日に日に大きくなっていく。

 だが彼女はもう一歩が踏み出せない。まさに今、その高さに怯え、鉄柵の前で今一歩踏み出せないように、その場に留まってしまう。

 彼女が戸惑っていると、その肩にそっと彼の手がまわった。彼女は鉄柵の前に、自然と導かれる。

 彼女は嬉しそうに身を寄せる。彼が自分を導いてくれる。それが嬉しくて堪らない。

 彼女は満面の笑みを浮かべる。

 彼が決意したようだ。彼女を抱きよせ、そして情熱的に身を寄せる。

 彼女は今まで見せたことのないような、歓喜の表情で顔を赤らめる。

 彼がここまで熱烈に、彼女を求めたことなどなかった。いつも彼女の思いばかりが空回りしていた。やっと彼は本気で彼女を求めてくれたのだ。

 彼女の体は、強く鉄柵に押しつけられた。鉄柵がなければ、どこまでも押し切られそうな熱い抱擁とキスだ。

 そのキスに、全てを忘れる。父のことも、その束縛も。彼女をいつも縛りつける全てのことを忘れる。

 心が、束の間の自由を謳歌する。

 だが今日のそれはいつもより長い。

 いつもなら束の間の自由。今日はその長さ故に、それが永遠のようにも感じられる。

 ああ――

 と、彼女は歓喜する。やっと自由になれる。彼が自由をもたらしてくれる。彼の手で導かれるであろう自由に、彼女は今から酔いしれる。

 鉄柵が軋む。

 彼女が感極まって、潤んだ瞳で彼を見る。身も心も捧げる笑みで、彼を見つめる。

 彼女の瞳は、覗き込む彼の視線を受け入れた。そして——


 そして彼は、恋に落ちた。

 財産しか魅力のない良家の子女。世間知らずのお嬢さん。最近束縛が激しい資産家の娘。何よりもう充分貢いでくれた彼の恋人――

 文字通り捨てるつもりだった。山際の公園で、鉄柵が弱っているところを見つけていた。事故に見せかけて、彼女を突き落とそうとした。

 だがまさにその時、彼が恋に落ちたのだ。本当に真心から何もかも差し出してきたその笑みに。

 しかしそれは少し遅かった。

 鉄柵が外れた。

 彼女の身が崖に投げ出される。

 彼はとっさに手を出した。思わず手が出た。

 彼は彼女の手を掴む。痛みに耐え、重力に堪え、彼女を引っ張り上げようとする。

 そう、たった今、本当に恋に落ちた女性を必死に助けようとする。

 残った鉄柵を掴む彼の指は、断ち切れんばかりに食い込んだ。


 彼女は彼を見上げる。幸せの絶頂で、彼女を奈落の底へ突き落した彼を見上げる。

 彼は腕一本で、必死に彼女の腕を握っている。

 そう、彼が彼女の手をつなぎ止めている。

 彼女を放すまいと掴んでいる。

 だがもう彼女は気づいている。彼は新しい束縛者なのだ。

 もはや彼女は自由の魅力にあらがえない。

 彼の腕を振り払った。

 そして彼女は宙に投げ出される。

 生まれて初めて自分の意志で手に入れた、本物の束の間の自由を味わいながら――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ふらりと立ち読み失礼します。 なるほどなぁと思いました。 たぶん殺意があるだろうと予測は出来ましたが、彼女の心の流れはとても繊細で印象的でした。 これからも執筆頑張ってください(o・v・o)…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ