束の間の
彼女は彼から山への誘いを受けた。
本格的な登山という訳ではない。
彼が誘ってくれたのは、歩いてでもいける山際の市民公園だからだ。
そこは開けた見晴らしが、素晴らしいと聞く場所だ。それでいてこの市内の人間なら、誰もが一度は訪れる身近な公園だった。
彼はその公園にいこうと彼女を誘う。君に見せたい光景があると彼女を誘う。
彼女はもちろん喜んでその誘いに乗る。
それは束の間の自由だからだ。
彼女はそんな身近な公園すら、いったことがなかったからだ。
二人は公園にくるや、高台に向かった。
見晴らしのいい高台だ。見晴らしがいいのは、そこが切り立った崖だからだ。
彼女は道すがら、早くも遠目に見えた、鉄柵の向こうの景色に感嘆の声を上げる。
彼女には自由がない。いつも外に連れ出してくれるのは彼だけだ。
成功者ではあるが、それゆえに頑迷な父の機嫌をとってまで、彼女を自由にしてくれるのは彼だけだった。
そう、束の間の自由をくれるのは彼だけだ。
父はいつも彼女を繋ぎ止めようとする。束縛しようとする。
彼女はまるで、いつまでも手を握られた幼子だ。
そう、父が彼女の手をつなぎ止めている。
彼女を放すまいと掴んでいる。
彼となら――
一度芽生えたその思いは、日に日に大きくなっていく。
だが彼女はもう一歩が踏み出せない。まさに今、その高さに怯え、鉄柵の前で今一歩踏み出せないように、その場に留まってしまう。
彼女が戸惑っていると、その肩にそっと彼の手がまわった。彼女は鉄柵の前に、自然と導かれる。
彼女は嬉しそうに身を寄せる。彼が自分を導いてくれる。それが嬉しくて堪らない。
彼女は満面の笑みを浮かべる。
彼が決意したようだ。彼女を抱きよせ、そして情熱的に身を寄せる。
彼女は今まで見せたことのないような、歓喜の表情で顔を赤らめる。
彼がここまで熱烈に、彼女を求めたことなどなかった。いつも彼女の思いばかりが空回りしていた。やっと彼は本気で彼女を求めてくれたのだ。
彼女の体は、強く鉄柵に押しつけられた。鉄柵がなければ、どこまでも押し切られそうな熱い抱擁とキスだ。
そのキスに、全てを忘れる。父のことも、その束縛も。彼女をいつも縛りつける全てのことを忘れる。
心が、束の間の自由を謳歌する。
だが今日のそれはいつもより長い。
いつもなら束の間の自由。今日はその長さ故に、それが永遠のようにも感じられる。
ああ――
と、彼女は歓喜する。やっと自由になれる。彼が自由をもたらしてくれる。彼の手で導かれるであろう自由に、彼女は今から酔いしれる。
鉄柵が軋む。
彼女が感極まって、潤んだ瞳で彼を見る。身も心も捧げる笑みで、彼を見つめる。
彼女の瞳は、覗き込む彼の視線を受け入れた。そして——
そして彼は、恋に落ちた。
財産しか魅力のない良家の子女。世間知らずのお嬢さん。最近束縛が激しい資産家の娘。何よりもう充分貢いでくれた彼の恋人――
文字通り捨てるつもりだった。山際の公園で、鉄柵が弱っているところを見つけていた。事故に見せかけて、彼女を突き落とそうとした。
だがまさにその時、彼が恋に落ちたのだ。本当に真心から何もかも差し出してきたその笑みに。
しかしそれは少し遅かった。
鉄柵が外れた。
彼女の身が崖に投げ出される。
彼はとっさに手を出した。思わず手が出た。
彼は彼女の手を掴む。痛みに耐え、重力に堪え、彼女を引っ張り上げようとする。
そう、たった今、本当に恋に落ちた女性を必死に助けようとする。
残った鉄柵を掴む彼の指は、断ち切れんばかりに食い込んだ。
彼女は彼を見上げる。幸せの絶頂で、彼女を奈落の底へ突き落した彼を見上げる。
彼は腕一本で、必死に彼女の腕を握っている。
そう、彼が彼女の手をつなぎ止めている。
彼女を放すまいと掴んでいる。
だがもう彼女は気づいている。彼は新しい束縛者なのだ。
もはや彼女は自由の魅力にあらがえない。
彼の腕を振り払った。
そして彼女は宙に投げ出される。
生まれて初めて自分の意志で手に入れた、本物の束の間の自由を味わいながら――