時計台の、気配
屋敷への、帰り道。
ふと、足が、止まった。
街の、どこからでも見える、あの、高い時計台。ダイヤモンドみたいな装飾が、夕日を浴びて、きらきらと、輝いている。
(……あれ?)
胸元が、ほんのり、温かい。
懐に忍ばせていた、あの手鏡。シルヴィアの隠れ家で見つけた、不思議な手鏡が——かすかに反応している。屋敷を出るときには、何もなかったのに。
(……手鏡が、反応してる?)
そっと取り出して、見る。鏡面は、いつも通り澄んでいる。でも——確かに、ほんのり温かい。まるで、何かに引き寄せられるように。
そして、その「引き寄せられる」方向は——あの、時計台だった。
『……みどり』
肩の上で、ピピの声が、いつになく、真剣だった。
『あの塔から……すっごく、強い気配が、する。僕、こんなの、感じたこと、ない』
「……強い気配?」
『うん。なんか……すごく、すごく、大きいもの。僕なんかとは、比べ物にならない、くらいの』
(……っ)
ピピが、こんなふうに言うのは、初めてだった。いつも、無邪気ではしゃいでいる、この子が。少しだけ、気圧されたように、声を潜めている。
時計台。手鏡の反応。そして、ピピが、感じる、強大な気配。
全部が——あの塔に、何かが、いることを、示していた。
(……行って、みよう)
好奇心と、予感に、押されて。私は、時計台へと、足を、向けた。
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時計台の、根元に、立つ。
間近で見上げると、その大きさに圧倒された。古い、けれど、荘厳な石造りの塔。てっぺんの、巨大な時計の文字盤が、静かに時を刻んでいる。
手鏡の、温かさが——強く、なった。
そして、私の中の、あの温かい力も。何かに、応えるように、ざわめいている。
(……ここに、何かが、いる)
間違い、なかった。この塔の、どこかに。何か、とてつもないものが、息づいている。
「ねえ、ピピ。この気配の、正体……わかる?」
『わかんない……。でも、なんだか……懐かしい、ような。怖い、ような。うまく、言えないけど。とにかく、すっごい、ものだよ』
私は、塔に、そっと、手を、当ててみた。
何か——届くかも、しれない。そんな、気がして。意識を、集中させる。手鏡を握りしめ、胸の奥の温かい力を、塔の気配へと、伸ばすように。
でも。
(……だめだ。届かない)
何かが、確かにそこに、いる。なのに——壁が、あった。分厚い、見えない壁。私の力は、その手前で、ふわりと霧散してしまう。
まるで——「お前には、まだ早い」と、言われているような。私の力が、その「何か」に届くには。あまりにも、未熟で、足りない。そんな、感覚だった。
(……今の私じゃ、無理、なのか)
悔しさと、もどかしさ。でも、同時に——少し、ほっとする気持ちも、あった。あの気配は、あまりにも大きすぎる。今、無理に触れたら——のみ込まれて、しまいそうで。
『無理しないほうがいいよ、みどり。今のきみじゃ、たぶん、届かない』
ピピが、珍しく、心配そうに、言った。
「……うん。そうだね」
私は、塔から、手を、離した。
今は、まだ。この気配の、正体に、触れるには——早すぎる。それだけは、はっきりと、わかった。
(……でも、いつか。必ず)
この塔に、いる「何か」。それは、きっと——シルヴィアの謎に、繋がっている。手鏡が、反応したのが、その証拠だ。
いつか、もっと力をつけて。必ず、また、ここに来よう。そう、心に誓って——私は、塔に背を向けようとした。
その、ときだった。
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『——へえ。珍しいこともあるものだ』
涼やかな、声が、した。
ピピの、舌足らずな声とは、まるで違う。落ち着いた、知的な、けれど、どこか人を食ったような響き。
(……誰?)
声の、する方を、見る。
時計台の、軒先。風の、吹き抜ける、その場所に。まるで——ずっと、そこから。塔に触れようとした私を、見ていたかのように。
——いた。
風でできているような、半透明の獣。すらりとした四肢。ふさふさの尾。つんと尖った、耳。
狐だ。風の、狐。
金色の、切れ長の目が、面白そうに、私を、見下ろしている。
『精霊士、か。……ふん。しばらく、見ないうちに、絶えたと思っていたが。まだ、残っていたとはね』
(……精霊。それも、ピピとは、全然、違う)
一目で、わかった。この狐は——ピピより、ずっと、格上だ。まとう気配の、密度が、違う。そして——なぜ、この狐は。よりにもよって、この時計台の、足元に、いたんだろう。あの、強大な気配の、すぐそばに。
『おや。そこの、低級精霊と、契約しているのか。……ふぅん』
狐は、ピピをちらりと見て。それから、また、私に視線を戻した。
『しかし——変わった魂だ。二つ、混ざっている。片方は、この世界のもの。もう片方は……ずいぶんと、遠いところから、来たようだね』
(……見抜かれてる)
ピピと、同じだ。精霊には、私の魂が、二つあることが、わかるらしい。
『ねえねえ、きみ、だれ!?』
ピピが、無邪気に狐の周りを飛び回る。狐は、それを迷惑そうに、尾で払った。
『……騒がしいな、低級は。私は、フェン。風の精霊だ』
「フェン……」
『いかにも。さて——そこの、珍しい魂の、精霊士どの』
フェンは、ふわりと宙を舞い降りて。私の目の前に、来た。金色の目が、すっと細められる。
『一つ、提案がある。私と——契約しないか?』
(……契約?)
思いがけない、申し出に。私は、戸惑った。
「……どうして。あなたみたいな、格上の精霊が。わたしなんかと」
『なに。大した理由じゃ、ないさ』
フェンは、ふっと、鼻で笑うように。
『精霊士なんて、ここしばらく、ついぞ、見かけなかった。退屈していたんだ。それに——その、二つ混ざった、珍しい魂。興味が、湧いた。それだけのこと』
(……興味、か)
ドライな動機だった。ピピみたいな、「いろんな所に行きたい!」という無邪気さとは、まるで違う。あくまで、自分の好奇心。気まぐれ。そんな空気。
——でも。
ほんの一瞬。フェンの金色の目が、ちらりと、時計台の上を、見た気が、した。まるで、誰かの、許しでも、確かめるように。
(……気のせい、かな)
すぐに、フェンは、私に視線を戻していた。気のせい、だろう。私は、その小さな引っかかりを、深く、考えなかった。
(……精霊にも、いろいろ、いるんだなあ)
無邪気な、ピピ。知的で、食えないフェン。同じ精霊でも、こんなに性格が違う。なんだか、人間と同じだ。
『言っておくが、契約しても、私は、その低級みたいにべたべたはしないよ。気が向いたとき、力を貸す。それだけだ。……ま、悪い話では、ないと思うがね』
「……あなたは、何が、できるの?」
私は、慎重に、尋ねた。フェンは、得意げに、尾を、揺らした。
『風の精霊だからね。遠くの音を、聞ける。人の、ひそひそ話も。それから——声や言伝を、風に乗せて遠くへ運ぶこともできる。あとは、まあ……動きの補助かな。風をまとえば、身も軽くなる』
(……それは)
ピピの「気配を読む」「探し物」とは、また違う、力。
遠くの音を、聞く。声を、運ぶ。素早く、動く。——情報収集にも、いざというときの、機動力にも、なる。
この、油断のならない世界で。生き延びるための、手札が——また、一つ、増える。
しかも、フェンは「べたべたしない、気が向いたとき力を貸すだけ」と言う。それくらいの、距離感のほうが、私には、ちょうどいいかもしれない。
(……それに)
ふと、思う。
この、フェン。ピピより、ずっと格上の精霊。気配の密度が、まるで違う。ということは——いつか、もっと力をつけて。この塔の「気配」に近づくときにも。きっと、心強い味方になってくれる。
(……うん。決めた)
「……わかった。契約、する。よろしくね、フェン」
『ふん。話が、早くて、結構』
フェンは、満足げに、目を、細めた。
『では——契約成立だ。よろしく、頼むよ。風変わりな、魂の、ご主人どの』
ふわり、と。一陣の風が、私を包んだ。涼やかで、自由な風の感触。それが、すうっと私の中に馴染んでいく。胸の奥で——ピピの清らかな水の力と、フェンの軽やかな風の力が。静かに並んだ、気がした。
『わーい! 仲間が、増えた! フェン、よろしくね!』
『……べたべた、するなと、言っただろう。低級』
『えへへ』
はしゃぐ、ピピを。フェンは、やれやれ、と言いたげに、尾で、いなしている。
(……賑やかに、なりそうだなあ)
私は、思わず、苦笑した。
無邪気な、水の精霊と。知的で、食えない、風の精霊。タイプの違う、二人——いや、二匹? の、相棒。
ふと、見上げた、時計台は。相変わらず、静かに、そびえている。
その奥に、眠る、巨大な「何か」を、隠したまま。
(……待っててね。いつか、必ず。あなたの正体を、突き止めるから)
まだ、見ぬ、その存在に。心の中で、そっと、語りかけて。
私は、二匹の相棒とともに、夕暮れの道を、屋敷へと、歩き出した。




