【番外編】お姉様の秘密
その日、わたくしは自室の窓を開けて、庭を眺めていた。
戦いが終わって、穏やかな日々。
ぽかぽかと、あたたかな陽射し。うとうとと、まどろみそうになった、そのとき。
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「……あら?」
庭の芝生の上に。
いつのまにか、一匹の猫が座っていた。
真っ白で長い毛が、陽の光を弾いて、きらきらと輝いている。まるで上等な絹のよう。そして、左右で色の違う美しい瞳。片方は、吸い込まれそうな空の青。片方は、きらめく黄金。
その猫は、つんと気高く、けれどどこかあどけなく。こてん、と小首をかしげた。
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——どくん。
その瞬間。
わたくしの心臓が、これまでの人生でいちばん大きく跳ねた。
(——っ!!!)
目の前が、きらきらと輝いて。
息ができない。指先が震える。頭の中が、真っ白になって。
(な……っ、なんて……なんて、なんて——!!)
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可愛い。
可愛い、可愛い、可愛い——!!!
なんて可愛い猫かしら!!!
あのふわふわ。あのおめめ。あの、つんとすましたお顔!
わたくしの心の中で、何かが盛大に爆発した。
長年、数えきれない猫のぬいぐるみを集めてきた、このわたくしが断言いたしますわ。
この子は本物だ。
本物の、究極の可愛さですわ——!!!
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『……にゃあ』
その猫が、わたくしを見上げて、小さく鳴いた。
(——っ!?)
な、鳴き声まで——!!
ころん、と鈴を転がすような、その声に。わたくしは、とどめを刺された。
膝が、へなへなと崩れそうになる。
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(……だ、だめ。落ち着くのよ、わたくし)
ふわふわの毛並み。くりんと丸いおめめ。ちんまりと揃えた前足。
わたくしは、思わず駆け寄りそうになって。
でも。
(……いけない。いけないわ、わたくし)
ぐっと足を止めた。
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「……な、なによ。あなた」
わたくしの口から出たのは、なぜか、つんと澄ました声だった。
「どこの猫か存じませんけれど。勝手に人の庭に入ってくるなんて。し、躾がなってませんわね」
(……ち、違う。違うのよ)
本当は、抱きしめて、頬ずりして。「いい子、いい子」と撫でまわしたい。
なのに。
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可愛いものを前にすると。
わたくしは、いつもこうなってしまう。
胸が、きゅうっと苦しくなって。顔が、熱くなって。どう接していいか、わからなくなる。
だから、つい。きつい言葉が口から出てしまう。照れ隠しに。
子供のころから、ずっとそう。可愛いものほど、素直に「好き」と言えない。
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『にゃ』
猫は、わたくしの嫌味なんて、どこ吹く風で。
とことこ、と歩いてきて。わたくしの足元に、すり、と——身体を擦り寄せた。
(……っ!!)
ふ、ふわふわが! 足に当たって——!
「ちょ、ちょっと。やめ……っ。だ、誰が。撫でてなんて——」
言いながら、わたくしの手は。もう、その背中を、そうっと撫でていた。
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『にゃ〜』
猫が、気持ちよさそうに目を細める。ごろごろ、と喉を鳴らして。
(……っ。か、可愛い。可愛すぎますわ……!)
もう、限界だった。
わたくしは、誰も見ていないのをいいことに。猫を、ぎゅっと抱きしめて。とろけそうな顔で——頬ずりをした。
「ふふ……。よし、よし。いい子、いい子。ああ、もう。どうして、こんなに可愛いのかしら」
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——と。
そのとき。腕の中の猫が、くるん、と——わたくしを見上げた。
きゅるんと、うるうるの上目遣い。ねえ、もっと撫でて。そう、ねだるように。
「——っ!?」
ど、どきん、と。あまりのあざとさに、心臓を——射抜かれた。
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(……っ。か、可愛すぎて。む、胸が……苦しい……っ!)
可愛さの暴力に、頭が真っ白になる。こういうとき、わたくしは。どうしていいか、わからなくなって——。
わたくしは、こほん、と咳払いをして。腕の中の猫に、つん、と——澄ましてみせた。
「……ま、まったく。油断のならない猫ですこと。少し可愛いからといって、いい気になるんじゃありませんわよ」
(……まあ。手放す気はありませんけれど)
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「……お姉様?」
「——ひゃっ!?」
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声に、飛び上がる。
振り返ると、庭の入り口に。緑が、立っていた。その隣には、人間の姿のフェンも。
(……み、見られ——!?)
いつから。いつから、そこに——!?
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「……っ。な、なんでもありませんわ!」
わたくしは、慌てて背筋を伸ばす。猫を抱えたまま、つんと——澄まして。
「この野良猫が、あんまりしつこくすり寄ってくるから。躾をしてやっていた、だけ。ですわ」
(……うそ。うそです。本当はもう、可愛くて、可愛くて。一秒だって離したくない)
腕の中のふわふわを、ぎゅっと抱きしめながら。口だけは、つんと澄ましてみせる。
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「……お姉様」
緑が、じいっとわたくしを見ていた。
「お姉様、猫ちゃん——大好きですよね。お部屋も、あんなに……」
「な……っ。な、何が言いたいの」
「なのに……今。その子に、すっごく——ツンツンしてませんでした?」
「——っ」
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「——っ、は!!」
緑が、何かに気づいたように目を見開いた。
「あ……。そっか。お姉様。好き、すぎて……?」
「な……っ」
「猫ちゃんが大好きなのに……かえって素直になれなくて。だから、つい——ツンツンしちゃうんですね……?」
「うっ……」
「あ。あれ。じゃあ、もしかして」
緑の声が、だんだん確信に変わっていく。
「お姉様が、シルヴィアに。いつもきつい言い方をしてたのも……」
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「可愛すぎて。素直になれなかったから……?」
ずばり。
核心を突かれて。
(——っ!!)
「ばっ……! ば、ばれ……!」
わたくしは、ぼ、ぼっ、と。顔から火が出そうに——なった。
「ち、ちが……っ! そ、そんなこと——! あわ、あわわ……っ!」
(……ばれましたわ——!!)
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そう。
今でも、覚えている。
初めて、シルヴィアを見たときのこと。
父が再婚して。わたくしと母が、この家に来た日。
その子は、広間の隅に。ぽつんと立っていた。
銀色の髪。垂れた長いまつ毛。おずおずと、こちらを見上げる——大きな瞳。
(……なんて、可愛らしい子)
あのときも、そう。心臓が跳ねた。可愛いものにめっぽう弱いわたくしは。一瞬で、その子に心を奪われてしまった。
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でも。
その可愛らしい妹は、どこか寂しげで。何か大きなものを、たった一人で抱えているように見えた。
(……心配だわ。何か力になってあげたい)
そう思って、声をかけた、のに。
「……あなた。そんなところでぼんやりして。みっともないですわよ」
(……ち、違う! 違うのよ!)
出てきたのは、やっぱり、つんと。とげのある言葉。
可愛くて、心配で、仲良くなりたくて。なのに、その気持ちが全部裏返って。嫌味になって、口からこぼれてしまう。
いつも、そう。いつも、いつも——そうだった。
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そしてある日。
あの子が、記憶を失った、と聞いた。
(……っ。そんな)
衝撃、だった。あんなにたくさん、ひどいことを言ってしまったのに。仲直りもできないまま、あの子の中から。わたくしとの思い出が、消えてしまった。
でも。
わたくしは、そのとき決めたのだ。
(……記憶がないのなら。わたくしのこれまでの、あのひどい態度も、忘れているはず)
(……だったら、今度こそ。もう少し優しく、素直に接しよう。やり直すんだ。お姉ちゃんらしく)
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(……まあ。結局)
ツンツンは、やっぱり出てしまった、のだけれど。
可愛いものを前にすると、素直になれないのは。どうやら、一生治らない病らしい。
(……ばかね。わたくしは、本当にばか)
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「……お姉様」
緑の声が、優しい。
「シルヴィアも、きっとわかってますよ。お姉様の、不器用な優しさ」
「……っ」
胸が、じんと熱くなる。
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「……それにしても。可愛い猫ちゃんですね」
緑が、わたくしの腕の中の猫をのぞきこむ。
「真っ白で、ふわふわで……。あ、なんだかペルシャ猫に似てます」
「ぺ、ぺるしゃ?」
「わたしのいた世界の、猫の種類です。長い毛で、お顔がまあるくて。とっても優雅で、可愛いんです」
(……ぺるしゃ猫。なんだか、響きも可愛らしいこと)
わたくしが、猫を抱きしめたまま。うっとり、していると。
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「——おい」
フェンが、腕を組んで。じっと——わたくしの腕の中の猫を見ていた。
「お嬢ちゃん。あんた、それ——」
「な、何よ。この子が、どうかして?」
「それ。……精霊だぞ」
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「……は?」
わたくしは、間抜けな声を出した。
「せ、精霊!? この子が!? そんな、馬鹿な……。ただの、可愛い。野良猫——」
『あら』
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声が、した。
わたくしの、腕の中から。
猫が、にやり、と口の端を上げて。優雅に、わたくしを見上げている。
『……バレちゃった?』
「——っ、しゃ、しゃべ……っ!?」
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『ふふ。ええ。わたくし、精霊よ。猫の姿をしているけれどね』
その声は、とろり、と甘く。どこか余裕たっぷりで、小悪魔めいていた。
「な……っ、なんで。精霊が、わたくしの庭に……」
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『あら。だって』
猫の精霊は、わたくしの腕の中で、ゆったりと尻尾を揺らす。
『あなたのお部屋。覗かせてもらったの。猫のぬいぐるみだらけで、可愛いものだらけで』
(……っ。み、見られて——)
『それで、思ったの。……この子なら』
くるん、と。オッドアイが細められる。
『わたくしを、ずぅっと甘やかしてくれそう、じゃない?』
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「——はい!?」
『だから。もう、契約は済ませておいたわ』
「け、契約!? い、いつの間に——!?」
『あなたが、わたくしを抱きしめて、頬ずりした、あのときよ』
(……あ)
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猫の精霊は、ぺろり、と前足を舐めて。
『これからは。よろしくね。わたくしの、あたらしい下僕さん』
「げ、下僕!? わ、わたくしは、公爵令嬢——!」
『あら。……「本物の、究極の可愛らしさ」、だったかしら?』
「——っ!?」
(……そ、それは。わたくしが、心の中で——!)
『ふふ。聞こえていたわよ。ぜぇんぶ、ね』
「——っ!!」
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(……た、確かに勝てませんけれど!)
「……ふふっ。あはは!」
緑が、とうとうこらえきれずに笑い出した。
「お姉様にぴったりの、精霊さんですね! ツンデレ同士で!」
「つ、つんでれ……? なんですの、それは」
(……また、緑の変な言葉)
「ふふ。素直じゃないのに、本当は優しい。……お姉様と、この子に。ぴったりってことです」
「な——っ。ば、馬鹿にしてますの!?」
「まさか。最高の褒め言葉ですよ」
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『ふふ。気が合いそうでしょう?』
猫の精霊が、わたくしの腕の中で。満足そうに丸くなる。
ふわふわの毛。あたたかな重み。ごろごろと響く、喉の音。
(……っ。も、もう。仕方のない子)
ああ。
だめだ。
こんなの、可愛すぎて。
もう、絶対に手放せないじゃ、ないの。
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「……名前」
「え?」
「な、名前を……つけてあげても、いいですわ。あなたが、どうしてもと言うなら」
『あら。素直じゃないこと』
「う、うるさいわね——!」
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二つの月が昇る、夜。
わたくしの、猫だらけの部屋に。
もう、ぬいぐるみじゃない。本物の(いえ、精霊だけれど)ふわふわが、ひとつ増えた。
わたくしの膝の上で、気持ちよさそうに眠る、その子を。
わたくしは、誰にも見られないのをいいことに。
とろけそうな顔で、いつまでも、いつまでも撫でていた。




