付け焼き刃の、貴族令嬢
ユリウスの、見舞いから、数日が、過ぎた。
その間、私は、暗号の手帳と、にらめっこを、続けていた。
結論から言うと——まったく、解けなかった。
規則性を探しても、文字を入れ替えてみても、シルヴィアの日記の筆跡と見比べても。記号の羅列は、頑として、意味を、明かさない。きっと、特定の「鍵」がいる。でも、その鍵が、何なのか。見当も、つかなかった。
「お嬢様。根を詰めすぎは、いけません。お顔の色が、すぐれませんよ」
私が手帳を——表向きは「気に入った詩集」ということにしている——眺めていると、エマが、心配そうに、取り上げる。
実際、この身体は、すぐに疲れた。少し集中すると、頭が重くなり、目の奥が、痛くなる。エマは、そのたびに、私を寝かしつけようとした。
「焦らず、療養なさってください。暗号……いえ、難しい詩は、お元気になってから」
(……療養、かあ)
暗号は、気になる。でも、エマの言う通り、この身体では、無理がきかない。私は、しぶしぶ、解読を、一旦、棚に上げた。焦っても、解けないものは、解けない。
そうして、数日。私が、おとなしく「療養」していた、ある日のこと。
事態は、突然、動いた。
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「お嬢様! 大変です! 王城から……王城から、招待状が……!」
エマが、一通の、豪奢な封筒を手に、飛び込んできた。
封蝋には、見るからに高貴な紋章。
「王城で、夜会が、催されるそうです。グリュンヴァルト家——つまり、こちらの御家に、ご一家での、ご出席を、と」
(……夜会。しかも、家族で)
私は、内心で、頭を抱えた。
王城の、夜会。貴族たちが、一堂に会する、社交の場。記憶喪失の令嬢にとって、これほど危険な舞台は、ない。所作、言葉遣い、誰が誰か——一つでも間違えれば、「シルヴィアが、おかしい」と、露見しかねない。
「お父様は、なんと?」
「ぜひ、出席を、と。お嬢様の、復帰のお披露目も、兼ねて……と。ただ、記憶のことも、ご心配で。『無理なら、断る』とも、おっしゃっていましたが……」
(……いや)
私は、少し、考えた。
逃げる、という手も、ある。でも——王城の夜会には、たくさんの貴族が、集まる。それは、危険でもあるけれど、同時に——情報の、宝庫でもある。
シルヴィアが、何者だったのか。この家が、どういう立場なのか。そして、もしかしたら——シルヴィアが遺した「謎」に、繋がる、何かも。
(……行こう)
逃げてばかりでは、何も、進まない。
「出席します、と、お父様に。……ただ、その。記憶を失くしているので、いろいろ、教えていただきたい、と」
エマの顔が、ぱっと、輝いた。
「では……夜会まで、特訓ですね! あの、身の回りのことは、わたしが。それから……お勉強は、ヘルガ先生に、お願いするのが、よろしいかと」
「ヘルガ、先生?」
「お嬢様の、専属の、家庭教師です。お嬢様が、小さい頃から、ずっと。……今は、別棟で、お休みになっていますが、お呼びすれば、きっと」
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ヘルガ先生は——会った瞬間に、「ああ、この人は、本物だ」と、わかる人だった。
白髪を、一筋の乱れもなく、結い上げた、老婦人。背筋は、定規を入れたように、まっすぐ。質素だが、糊のきいた、清潔な装い。皺の刻まれた顔は、厳格そのもの。けれど、その瞳の奥には、確かな、温かさが、あった。
「お嬢様。記憶を、失くされたと、伺いました」
ヘルガ先生は、私の前に立つと、静かに、言った。
「ご安心を。何を、忘れていらしても。わたくしが、もう一度、最初から、お教えいたします。——ただし、手加減は、いたしませんよ。グリュンヴァルト家のご令嬢として、恥ずかしくないように。それが、わたくしの、務めですから」
(……うわ。厳しそう。でも)
その厳しさの奥に、私は、安心感を、覚えた。
この人は、信頼できる。長年、この家に仕えてきた、芯の通った人。嘘や、ごまかしを、許さない代わりに——裏切ったりも、しない人。そういう、空気が、あった。
「……はい。よろしく、お願いします、先生」
私が頭を下げると、ヘルガ先生は、ほんの少しだけ、目元を、和らげた。
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こうして、私の——付け焼き刃の、貴族令嬢、特訓が、始まった。
まずは、所作。これは、ヘルガ先生の、領分だった。
「お辞儀は、こう。背筋を伸ばし、視線を落とし、ドレスの裾を、指先で、軽く……。相手の身分によって、頭を下げる深さも、変わります。よく、ご覧なさい」
ヘルガ先生の、手本は、見事だった。老齢とは思えぬ、流れるような所作。一切の、無駄がない。
私は、それを——一度で、再現した。
「……ほう」
ヘルガ先生の、片眉が、わずかに、上がった。傍らで見ていたエマは、ぽかんと、口を開けている。
「お嬢様……一度で。それも、記憶を失くす前より、むしろ、洗練されておいでです」
(……まあ、これは、得意分野だから)
内心で、私は、苦笑した。
所作。立ち居振る舞い。それは——演劇部で、三年間、叩き込まれたものだ。「役」に合わせて、身体の動きを、作る。優雅な令嬢の所作なんて、舞台で、何度、演じたか、わからない。
ダンスのステップも、扇の扱いも、ティーカップの持ち方も。お茶会での振る舞いも、王族への、最上級の礼も。ヘルガ先生が、一度、手本を見せれば、私の身体は、それを、覚えた。
「身体が、覚えていた、ということでしょうか。……結構。これなら、夜会でも、引けを取りますまい」
ヘルガ先生が、珍しく、満足げに、頷く。その隣で、エマが、自分のことのように、誇らしげに、目を輝かせていた。
(役者を、なめてもらっちゃ、困る……なんて、言えないけど)
ちょっとした、優越感だった。この世界に来てから、ずっと、後手に回ってきた私が。初めて、自分の「武器」で、前に出られた瞬間。
次は、教養。所作以上に、ここが、ヘルガ先生の、本領だった。
文字の読み書きは、問題ない。シルヴィアの身体が、覚えている。計算も、簡単なものなら、元の世界の知識で、十分応用が、効いた。礼儀作法の知識も、所作と同じで、覚えればいい。
……ただ。
一つだけ。どうにも、ならない分野が、あった。
「では、お嬢様。この国の、歴史を……」
ヘルガ先生が、分厚い本を、開く。
(……うっ)
歴史。地理。そして——貴族名簿。
これだけは、どうしようもなかった。
所作は、身体の技術だ。計算は、論理だ。元の世界の知識で、なんとかなる。でも、歴史と地理と、貴族の名前は——「この世界、固有の、情報」だ。覚えるしか、ない。応用も、推測も、効かない。
私は、机に、かじりついた。
「この国は、クライネブルク王国。建国は、およそ四百年前。初代国王が……」
知らない、国名。知らない、王の名前。知らない、戦争の歴史。元の世界で、日本史も世界史も、そこそこ得意だった私が——まるで、歯が立たない。だって、習ったことの、ない歴史なんだから。
地理も、同じだった。クライネブルク王国。その周辺の、国々。山脈、河川、主要都市。一つひとつ、頭に、叩き込む。
(……地名が、頭に、入ってこない……!)
元の世界なら、「日本の北に北海道」みたいに、土台があった。でも、この世界には、その土台が、ない。ゼロから、白紙の地図を、埋めていくようなものだ。
ヘルガ先生は、厳しかった。けれど、見放さなかった。
「お忘れになったのなら、覚え直せばよいのです。一度で覚えられぬなら、十度。十度で無理なら、百度。——ただ、闇雲には、お教えしません。歴史には、流れがあります。なぜその戦が起きたか。なぜ国境がそこに引かれたか。理由から辿れば、地名も、年号も、おのずと繋がります」
(……あ。この教え方、わかりやすい)
丸暗記じゃなく、「流れ」と「理由」で繋ぐ。それは、演劇で、台本のセリフを「感情の流れ」で覚えるのと、同じだった。ヘルガ先生の、理にかなった教え方のおかげで、白紙だった地図に、少しずつ、線が、引かれていった。
厳しいけれど、誠実な先生だった。私が一つ覚えるたびに、口には出さないけれど、ほんのわずかに、頷いてくれる。その小さな承認が、不思議と、励みになった。
そして——三日目あたりに、差しかかった、ある時のこと。
歴史の本の、ある章で、私の手が、止まった。
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「……先生。これは、何ですか?」
私が指さしたのは、『失われし、精霊術』と題された、章だった。
「ああ……精霊術、ですね」
ヘルガ先生は、少し、間を置いて、語り始めた。
「ずっと、昔。この世界には、精霊と、語り合える者が、おりました。風や、水や、光の、精霊と。彼らは『精霊士』と呼ばれ、それは、尊ばれたそうです」
(精霊……士)
「精霊士は、精霊と『契約』を結び、その力を、借りられたと言います。遠くの報せを運んだり、傷を癒したり……まるで、物語のような、力を。中でも、王家に連なる、ある御家は、特に強い精霊士を、代々、輩出していた、と」
「……過去形、なのですね」
「ええ」
ヘルガ先生は、本のページを、そっと、撫でた。その目に、ほんの一瞬、何か——昔を懐かしむような、あるいは、惜しむような色が、よぎった気がした。
「百年ほど前を境に、精霊は、人の前から、姿を消しました。理由は、誰にも、わかりません。それ以来、精霊と契約できる者は、ぱたりと、生まれなくなった。……今では、精霊術など、おとぎ話。本気で信じている者など、ほとんど、おりません」
(……へえ)
私は、その章を、興味深く、読んだ。
精霊。精霊士。契約。失われた、伝説の力。
ファンタジーだなあ、と、のんきに、思った。異世界らしい、設定だ。物語の中の話。今は、誰も信じていない、おとぎ話——。
……そう、流して。
私は、その章を、ぱたりと、閉じた。
ただ——なぜだろう。閉じたあとも、その章のことが、少しだけ、頭の隅に、残った。
理由は、自分でも、わからなかったけれど。
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さて。最後の難関が、貴族名簿だった。
王国の、主だった貴族の、家名と、当主と、その関係。これを、頭に入れておかないと、夜会で、誰が誰か、わからない。「初めまして」も「お久しぶり」も、間違えれば、命取りだ。
「主要な御家だけでも、覚えましょう。まずは——王家。それから、四大公爵家」
ヘルガ先生が、家系図を、広げる。
私は、ひとつひとつ、暗記していった。役名と、その背景を覚える、舞台の要領で。
「こちらが、グランツ公爵家」
(あ……ユリウス様の、御家だ)
ユリウス・グランツ。隣領の、幼馴染み。私の「変化」を、見抜いたかもしれない、あの青年。家は、公爵家。格上だと、思っていたけれど——名簿で見ると、四大公爵家の、一角。この国でも、屈指の、名門だった。
「グランツ公爵家は、王家との繋がりも、深うございます。……ご存じないでしょうから、申し上げておきますが。ご嫡男のユリウス様には、縁談の、お話が、ございます」
「……縁談?」
「まだ、正式に決まったわけでは、ありません。あくまで、候補の、お一人。ですが——お相手は」
ヘルガ先生は、少し、声を落として、ある名を、口にした。
「この国の、王女殿下です。公爵家の嫡男と、王女殿下。家格の釣り合いからも、よく挙がる、お話で……。夜会では、おそらく、お会いになるでしょう。……くれぐれも、ご無礼のないように」
(ふうん)
私は、その、王女の名を、ちらりと、頭に、刻んだ。
覚えておくべき名前の、一つ。でも、それ以上の、関心は、湧かなかった。ユリウスに、縁談の相手がいようと、それは、彼の事情だ。私には、関係ない。
(……あれ。でも)
ふと、引っかかった。
ユリウスには、縁談の相手が——それも、王女が、いる。なのに——なぜ、わざわざ、隣領の、私の見舞いに、来たんだろう。幼馴染みだから、というだけで?
(……まあ、いいか)
私は、深く考えず、その名前を、頭の隅に、放り込んだ。
覚えるべき名前の、一つ。ただ、それだけ、のつもりで。
——その名前が、どういう意味を持つことになるのか。このときの私は、まだ、何も、知らずに。
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特訓の合間。
フレデリカは、相変わらず、ちょくちょく、ちょっかいを、かけてきた。
「ふん。付け焼き刃のマナーで、王城の夜会に出るですって? 恥を、かかなければ、いいですわね」
廊下ですれ違うたびに、つん、と、嫌味を、置いていく。
「グリュンヴァルト家の、名に、泥を塗るような真似だけは、なさらないでね」
(……はいはい)
私は、もう、いちいち、真に受けないことにした。
嫌われているなら、嫌われているで、構わない。今は、夜会を、無事に乗り切ることだけ、考えよう。フレデリカのことは——おいおい、考えればいい。
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そして。
特訓の甲斐あって、なんとか、最低限の「貴族令嬢」を、演じられるところまで、仕上げて。
いよいよ——王城の、夜会の、日が、やってきた。
(……よし)
鏡の前で、私は、深く、息を吸った。
銀髪を結い上げ、淡い色のドレスを纏った、シルヴィアの姿が、そこにある。所作は、完璧。教養も、詰め込んだ。準備は、できる限り、した。
仕上げに、エマが、ドレスの裾を、そっと、整えてくれた。そして——一歩、下がって、私の全身を見たエマは、目元を、そっと、押さえた。
「お嬢様……。とても、お似合いです」
それから、涙のにじむ声で、こう、続けた。
「……どうか、ご無理は、なさらないでくださいね。お加減が悪くなったら、すぐ、お戻りください」
賛辞より、心配が先に出るのが、いかにもエマらしかった。
そして、その傍ら。
壁際で、腕を組んで、私を見ていたヘルガ先生が——ゆっくりと、頷いた。
「……結構」
ただ、一言。けれど、あの厳しいヘルガ先生が、その口元を、わずかに、ほころばせていた。
「立ち姿、所作、表情。どれも、申し分ありません。短い間に、よくぞ、ここまで。——胸を張って、いってらっしゃいませ。あなたは、立派な、グリュンヴァルト家のご令嬢です」
(……二人とも)
胸の奥が、じんと、熱くなった。
この数日、エマは、付きっきりで世話を焼いてくれた。ヘルガ先生は、厳しくも、根気強く、教えてくれた。記憶喪失の(ということになっている)、面倒な令嬢を、見捨てずに。
私は、シルヴィアじゃない。中身は、別人だ。それでも——この二人の、向けてくれる気持ちだけは、本物だった。
(演じきってみせる。シルヴィア・フォン・グリュンヴァルトを)
二人の想いに、応えるためにも。
この夜会が、ただ、無事に終わればいい。ボロを出さず、誰にも怪しまれず、やり過ごせれば。そう、思っていた。
——その夜会が、私の、この世界での運命を、大きく動かすことになるなんて。
このときの私は、まだ、知る由も、なかった。
幕が、上がる。
今夜の舞台は——王城の、夜会。




