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婚約破棄されたので、定時退勤で領地経営します  作者: 秋月 もみじ


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第9話 数字は嘘をつかない


年に一度の領主会議。


王都の大会議場。十二の領主が一堂に会し、領地の経営状況を王に報告する場。私は辺境ソレイユ領の代官として、初めてこの席に着いた。


場違いだ、と思った。


周囲は歴戦の領主たち。白髪の老公爵、軍勲を誇る辺境伯、三代続く名門の伯爵。その中に、人口三百人の辺境村の代官。


席順は領地の序列通りで、私は末席だった。


隣の席に、カイがいた。


辺境伯として、当然の席だ。軍服を正装に着替えている。いつもの簡素な作業着とは違う。肩章がついた濃紺の上着。髪を整え、背筋を正した姿は、普段とは別人のようだった。


だが、座った瞬間に小さな音がした。


足元で、カイの椅子の脚が、私の椅子に少しだけ寄せられた。


目を合わせなかった。カイも前を向いている。だが、椅子と椅子の間がわずかに狭くなった。それだけで、足の裏の冷たさが少し和らいだ。


報告は序列の上位から始まった。一領ずつ、今年度の収支報告と次年度の改善案が述べられる。


レオン殿下の番が来た。


壇上に立った殿下の顔色は、半年前とは違っていた。目の下の隈が深い。声は張っているが、原稿を読んでいるのが見える。


「今年度のアーヴェント直轄領の収支は――」


数字を聞いて、私は帳簿を読む人間として、すぐにわかった。


悪い。経営指標が軒並み前年を下回っている。農業生産は微減。交易収入は二割減。社交関連費が突出して増加。改善案は――抽象的で、具体性がない。


王の表情が変わった。静かに、しかし確実に。


「レオン。次年度の改善案はこれだけか」


「現在、詳細を策定中です」


「前年は詳細な数字と具体策が並んでいた。筆跡まで丁寧だった。今年はどうした」


レオンの喉が動いた。答えが出ない。


◇◇◇


末席の報告が来た。私の番だ。


立ち上がる。膝が笑いそうになった。大会議場の視線が集まる。辺境の小さな領地の代官に、大した興味はないだろう。形式的な報告をして終わるはずの時間だ。


でも、隣の席のカイが「参考資料です」と言って、一冊の帳簿を王の侍従に渡した。


私の知らない帳簿だった。


「これは?」


「ソレイユ領の代官が赴任してから八ヶ月間の、改革の成果記録です。私が隣領として定期的に確認し、記録していたものです」


カイが、記録していた。


八ヶ月。毎週の視察で、カイはただ見ていたのではない。排水路の修繕。治水の設計。冬花茶の開発。農閑期休暇制度。市の開催。赤字から黒字への転換。すべてを、数字と日付で記録していた。


知らなかった。


王が帳簿をめくった。ページが進むにつれて、眉が上がっていく。


「辺境伯。この記録によると、ソレイユ領は赴任時点で税収ほぼゼロの破綻状態だったが、八ヶ月で黒字化している。これは確かか」


「はい。数字に嘘はありません」


カイの声が、会議場に響いた。


数字は嘘をつかない。


その言葉を聞いた瞬間、指先がしびれた。帳簿を読む人間にとって、これ以上の言葉はない。数字を信じている人間が言う「嘘はない」は、その人の全人格を賭けた保証だ。


「もう一点」


カイが続けた。声の調子が変わっている。いつもの平坦ではなく、低い。覚悟を含んだ声。


「この帳簿と、三年前にレオン殿下が陛下に提出された領地改善報告書を、並べてご覧ください」


会議場が静まった。


王が侍従に命じ、過去の報告書が持ち出された。カイの帳簿と、三年前のレオンの報告書。


二冊が並べられた。


「筆跡が同じです」


カイの声。


「三年前にレオン殿下の名前で提出された改善報告書は、実際にはセレナ・カルヴァート代官が作成したものです。私は辺境伯として各領の報告書を閲覧する権限がありますが、以前からこの筆跡と数字の組み方に覚えがありました」


レオンの顔から血の気が引いた。


「なぜ今まで」


王の問いに、カイが答えた。


「介入する立場にありませんでした。辺境伯の権限は軍事と治安に限られます。内政の人事に口を出す権限がなかった」


そして、カイは私を見た。


灰色の目。その目が、初めて何かを語っていた。言葉ではなく、目が。


「知っていました。知っていたのに、何もできなかった。それは俺の落ち度です」


会議場ではなく、私に言っている。


声が震えていた。この人の声が震えるのを、初めて聞いた。


◇◇◇


その後の展開は、速かった。


王がレオンに「この報告書は誰が書いたのか」と問い、レオンが答えられず、マリスが「セレナ様が――」と口を開きかけたが、それを遮ったのは会議場の扉が開いた音だった。


入ってきたのは、ソレイユ領の領民の代表団だった。


トマスが先頭に立っている。その後ろにミア。そして農夫たち。みな、旅装のままだ。辺境から五日間かけて来たのだろう。


「陛下。失礼を承知で参りました」


トマスが膝をついた。手に、巻物を持っている。


「ソレイユ領の民三百人の連名による嘆願書です。嬢ちゃん――セレナ代官を、この領地から取り上げないでいただきたい」


三百人の名前。読み書きのできない者は、拇印を押していた。


知らなかった。


領民が、嘆願書を作っていたことを。私に言わずに、王都まで来たことを。


トマスが立ち上がった。


「嬢ちゃんは最初、変なことばかり言いました。定時だの、休日だの、わしらにはさっぱりだった」


会議場に低い笑いが漏れた。


「でもな、嬢ちゃんは泥に膝をついた。水車が壊れた嵐の夜に、軸の下に潜った。帳簿の数字ばかり見てた嬢ちゃんが、初めてわしらの顔を見て、泣いた。それからだ。この嬢ちゃんは、本物だと思ったのは」


ミアが半歩前に出た。


「セレナ様は、私の知っている薬草に値打ちがあると教えてくれました。お母さんが残してくれたものが、誰かの役に立つと」


声が小さかった。でも、大会議場の隅まで届いた。


視界が滲んだ。


泣いては駄目だ。ここは会議場で、私は代官で、泣く場面ではない。


でも、帳簿の裏に書いた「やり方を変える。でも、諦めない」が、こういう形で返ってくるとは。


こういう――こういう、形で。


うまく言えない。言葉が見つからない。前世の語彙も、こちらの語彙も、足りない。


全部署のハンコが揃った稟議書。これでやっと動ける。


……違う。稟議書なんかじゃない。これは、もっと。


涙を拭えなかった。拭く暇がなかった。拭かなくても、構わなかった。

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