第8話 お気持ちは受け取りました
春が来ていた。
冬の間に整えた制度が動き出している。農閑期休暇は好評だった。月一回の市にはソレイユ領だけでなく、三つの隣村から人が来るようになった。冬花茶は市の目玉商品になり、ミアが乾燥と袋詰めを担当し、トマスが商人との交渉を担った。
帳簿の赤字が消えた月は、何の感慨もなく過ぎた。黒字に転じたことに気づいたのは、月末の集計の時だった。
「……あ」
声に出してしまった。数字を二度確認した。間違いない。収入が支出を上回っている。わずか銀貨三枚分だが、黒字は黒字だ。
報告する相手がいないことに気づいた。前世なら、上司に報告書を出す。こちらでは、この帳簿を見る人は私だけだ。
いや、一人いる。
「カイ様に見せよう」
口に出してから、なぜ最初にカイの名前が浮かんだのか、考えないことにした。隣領の辺境伯に経営状況を報告するのは合理的だ。隣の領地が安定すれば、カイの領地にも利益がある。
合理的。
合理的なはずだ。
◇◇◇
その日の午後、予想していなかった来客があった。
「セレナ。久しぶりだな」
玄関に立っていたのは、レオン・アーヴェント第一王子だった。
供回りは二人だけ。簡素な旅装。だが、どれだけ簡素にしても、この人の立ち姿には王族の自覚が染みついている。背筋の伸ばし方、顎の角度、人を見下ろす視線の高さ。
半年ぶりに見る顔だった。
何も感じないかと思っていた。もう何も残っていないと思っていた。実際、胸の内は凪いでいる。波一つない水面のように。
ただ、足の裏が冷たくなった。石の床の冷たさが、急に意識された。
「お久しぶりです、殿下。何のご用でしょうか」
「中で話せるか」
領主館の応接間と呼べる一室に通した。マルタが茶を出す。冬花茶だ。レオンはカップを手に取らなかった。
「単刀直入に言う。私は間違っていた」
間。
レオンの目が、私を見ている。半年前、断罪の場で「貴様」と呼んだ目。今は、違うものが浮かんでいる。後悔。あるいは、後悔に似た何か。
「お前が担っていた業務の重さを、私は理解していなかった。マリスの讒言を鵜呑みにしたことも。すべて私の判断の誤りだった」
言葉は丁寧だった。以前のレオンは、私に敬語を使わなかった。
「婚約を復活させたい。お前に王都に戻ってほしい」
ああ、と思った。
これが来るだろうとは予想していた。帳簿の数字を見ていればわかる。レオンの派閥が瓦解しつつあること。改善案が出せず、王からの信頼が揺らいでいること。
私が必要なのではない。私の能力が必要なのだ。
……いえ、そうではなく。この人は、自分なりに反省しているのかもしれない。半年前より声が低い。目の下に隈がある。自分の手で実務をやろうとして、できなかった人間の顔をしている。
それは、わかる。
わかるが。
「殿下。お気持ちは受け取りました」
レオンの目が、わずかに開いた。
「ですが、お受けすることはできません。私はもう、辺境ソレイユ領の代官です」
「代官などという小さな仕事に」
「小さくありません」
声が静かだった。自分でも驚くほど。胸の奥は凪いだまま。ただ事実を述べている。
「三百人の領民がいます。薬草茶を作る少女がいます。市を取りまとめる老人がいます。水車を直してくれた農夫たちがいます。この領地は小さいですが、帳簿の数字は嘘をつきません。先月、黒字に転じました」
レオンが黙った。
「殿下が必要としているのは、帳簿を整えられる人材です。それは私でなくても務まります。引き継ぎ書をお読みください。調合法も、帳簿の記帳ルールも、すべて書いてあります」
読んでいないのだろう。レオンの表情でわかった。
「お元気で、殿下」
立ち上がった。レオンはしばらく椅子に座ったまま動かなかった。冬花茶は、最後まで手をつけられなかった。
◇◇◇
レオンが去った後、しばらく窓の外を見ていた。
馬車が小さくなっていく。砂埃が上がり、春の日差しの中に溶ける。
もし半年前に同じ言葉を言われていたら。
断罪の前に。あるいは、断罪の直後に。
「戻ってこい」と言われていたら。
戻っていただろうか。
わからない。本当に、わからない。半年前の私は、まだ前世の「会社に必要とされること」が自分の価値だと思っていた。必要とされれば戻る。それが正しい選択だと。
でも今は。
窓の外に、カイの領地がある方角。北の空。雲が流れている。
今は、戻る理由がない。
ここには帳簿がある。薬草がある。排水路がある。鐘七つで帰れる暮らしがある。
それから。
毎週来る辺境伯がいる。
ペンを回した。前世の癖だ。羽ペンだとうまく回らない。いつも途中で落とす。
レオンが来たことを、カイに報告すべきだろうか。隣領の安全に関わる情報だ。王子が辺境まで足を運んだことは、政治的に重要だ。報告する合理的な理由がある。
合理的。
また、その言葉だ。
窓の外を見る。北の方角。見ているだけで、何かが胸の中で動く。名前のつけられない何かが。どの勘定科目に入れていいかわからない感情が。
定時の鐘が鳴った。
帳簿を閉じる。今日は閉じるのが少しだけ惜しかった。帳簿を閉じると、考え事が始まるからだ。考え事の中に、灰色の目が混ざるからだ。
困る。
定時後は休息の時間だ。仕事のことは考えない。
でもこれは仕事のことではない、と気づいてしまった。それが一番困った。




