第7話 薬草茶と空席
ミアの薬草茶が完成した。
冬早咲きの蕾を天日で三日間乾燥させ、細かく砕き、麻の小袋に詰める。一袋で湯呑み三杯分。咳止めの効能があり、味は甘くて、少しだけ青い香りがする。
「名前をつけましょう」
「名前?」
「商品名です。ただの薬草茶では売れません。名前が必要です」
ミアが首を傾げた。商品名という概念がないのだ。
「この花の名前は冬早咲き。この領地の名前はソレイユ。だから――ソレイユの冬花茶」
ミアの目が大きくなった。それから、小さく口元が緩んだ。
「……お母さんが聞いたら、喜ぶと思います」
声が少しだけ震えていた。ミアはすぐに顔を伏せ、麻袋の口を丁寧に結び直した。
最初の出荷は二十袋。少ない。だが、最初の一歩は小さくていい。前世で学んだ。MVP。ミニマム・バイアブル・プロダクト。最小限の商品でまず市場に出す。
トマスが手配した月一回の市で、冬花茶を並べた。隣村から来た商人が試飲し、鼻を鳴らし、三袋買った。翌月には十袋。その次の月は全量が売り切れた。
帳簿に黒字の数字が並び始めた。
小さな黒字だ。領地全体の赤字を埋めるには程遠い。でも、損益分岐点が見えてきた。ここからは利益しかない、と言い切れる段階ではないが、少なくとも方向は合っている。
◇◇◇
先日、カイの領地に用事があって訪ねた。執務室に通された時、壁に見慣れた地図が貼ってあった。ソレイユ領の地図だ。排水路の修繕箇所、治水設計の場所、冬花茶の乾燥棚の位置。それぞれに小さな印がついている。
「これ、なぜ隣の領地の地図を?」
私が聞くと、カイは書類から目を上げずに答えた。
「境界の確認だ」
境界にしては、印の場所が内陸すぎる。全部、私が改革した場所だ。
ちなみに、帰り道でまた迷った。自分の領地なのに。カイが馬で迎えに来て「……また迷ったのか」と呟いた。その声が、前より少し柔らかかった気がするのは、気のせいだと思う。
それはさておき。
カイが、冬花茶を自領の宴席で出したらしい。
リックから聞いた。
「閣下が宴席で"隣領の品だ"って紹介してたんですよ。お客様方が"美味い"って。それで注文が」
「注文?」
「五十袋。閣下の宴席に来る方々は領主や商会の重鎮ばかりなので、そこで評判になると」
五十袋。現在のミアの生産能力では二ヶ月分だ。
カイにお礼を言わなければ。いや、あの人は「合理的判断だ」と言うだろう。隣領の産業が育てば自領の交易にも利がある。それは事実だ。
でも、宴席で紹介する時に私の名前を出さなかったのが気になった。「隣領の品だ」とだけ。
控えめなのか。意図的なのか。
……考えすぎだ。帳簿に戻る。
◇◇◇
冬花茶の噂は、商人を経由して少しずつ広がった。三ヶ月で、ソレイユ領の名前が近隣の五つの領地に知られるようになった。
「薬草茶を作っている辺境の小さな領地」として。
同じ三ヶ月で、もう一つの噂が広がっていた。
「聖女マリスの治癒が、最近失敗する」
手紙で知った。王都にいた頃の侍女仲間が、近況を書いてくれたのだ。
マリスの治癒魔法の成功率が目に見えて下がっている。以前は九割を超えていたのが、今は六割程度。原因不明とされている。
原因は不明ではない。少なくとも、私にとっては。
マリスに渡していた補助薬――鎮痛と抗炎症の効果がある煎じ薬。患者が治癒魔法を受ける前にこれを飲むと、身体の炎症反応が抑えられ、魔法の効きが格段に上がる。
引き継ぎ書に調合法は書いた。だが、調合には冬早咲きの蕾が必要だ。王都では手に入らない。ソレイユ領の自生種でなければ、薬効が十分に出ない。
つまり、私がいなくなったことで原材料の供給が止まり、補助薬が作れなくなった。
マリスは自分の力だけで治癒していたわけではない。そのことに、本人も気づいていないだろう。
ざまぁ、と思うべきなのかもしれない。でも、正直に言えば、そんな感情は湧かなかった。治癒が失敗するということは、治らない患者がいるということだ。患者に罪はない。
……つまり、帳簿の話に戻ろう。感情の処理は後回しだ。
◇◇◇
同じ手紙に、もう一つの報せがあった。
レオン殿下が側近に命じたという。
「前年の領地改善案を作成した担当者を呼べ」
前年の領地改善案。私が書いたものだ。殿下の名前で王に提出された、あの報告書の続編。
当然、書ける人間はいない。
側近たちは顔を見合わせたという。「前年の担当者」がセレナ・カルヴァートであることを知っている者はいた。だが、殿下に「それはあなたが追放した令嬢です」とは言えなかった。
結局、改善案は提出されなかった。
王が「レオン。今年の改善案はどうした」と問うた時、殿下は「現在作成中です」と答えたそうだ。
引き継ぎ書は渡した。作成手順も、データの所在も、すべて書いてある。読めば書けるはずのものだ。
でも、読んでも書けないことがある。三年間、領地を歩き、農夫と話し、数字の裏にある人の顔を見てきた経験。それは紙には移せない。
前世の退職でも同じだった。マニュアルを残しても、後任者が同じ質で仕事をできるとは限らない。暗黙知というものは、人に宿る。
帳簿を閉じた。
ふと、カイの領地の方角を見た。窓越しに北の空が見える。冬の雲が低い。
あの人の宴席で、冬花茶はどんなふうに出されたのだろう。カイのことだから、説明は「隣領の品だ。飲め」くらいだったに違いない。それで五十袋の注文が来たのなら、カイの客人たちは味のわかる人々なのだろう。
……いえ、そうではなく。カイが勧めたから飲んだのだ。あの人が勧けるものには信用がある。寡黙な人間が口を開いた時の説得力を、私は前世で知っている。会議で一言も発しなかった山田部長代理が「これはやるべきです」と言った時、全員が黙って頷いた。
カイは、私の名前を出さなかった。でも、冬花茶を飲んだ人は、いずれソレイユ領を知る。名前より先に、味が届く。
順序が、正しい。
窓の外で、ミアが薬草の乾燥棚を整えている。冬の弱い日差しの中で、白い蕾が行儀よく並んでいる。
この領地は、ゆっくりだけれど、変わりつつある。
定時の鐘が鳴った。
帳簿の今月の収支を見る。赤字幅が先月の半分になっている。来月にはもう少し縮まるだろう。黒字転換は、たぶん春。
前世では「来月こそ定時に帰る」と言いながら、結局一度も定時に帰れなかった。
こちらの世界では、毎日帰れている。それだけで、たぶん。
前世の私は、成仏できる。




