第6話 嵐の夜と水車
農事暦の制度を、トマスと一緒に作った。
「一緒に」というのが大事だった。前回の失敗は「上から降ろした」ことだ。今回は、トマスの台所に座り、黒麦粥を啜りながら、農夫たちの一年を聞いた。
種蒔きの時期。草引き。害虫駆除。収穫。脱穀。冬支度。どの月が忙しく、どの月に手が空くか。
「十二月から二月は雪で畑に出られん。三月は雪解けを待つ。この間は、やることがない」
「やることがない」
それだ。
「その三ヶ月を、公式な休息期間にします。さらに、休息期間中に月一回の市を開く。近隣の村から人を呼んで、物の売り買いと情報交換の場にする」
トマスが顎を撫でた。皺だらけの指が、ゆっくり動く。
「市か。昔は、この辺りにも市があったな」
「昔?」
「先先代の領主の頃だ。街道沿いに市が立って、隣村からも人が来た。薬草を売る婆さんがいてな。よく繁盛していた」
薬草を売る婆さん。ミアの母親かもしれない。
「トマスさん。市の場所と日取りは、あなたに決めてもらえませんか」
「わしが?」
「この土地のことは、あなたが一番知っています」
トマスがこちらを見た。長い沈黙。それから、腕を組んでいた腕が、ほどけた。
「……嬢ちゃん。やっと、まともなことを言うようになったな」
嬢ちゃん。同じ呼び方なのに、前とは音の温度が違う。角が取れている。
◇◇◇
制度の準備を進めている最中に、嵐が来た。
秋の終わりの大嵐。朝から空が鉛色に沈み、午後には横殴りの雨になった。
問題は水車だった。
ソレイユ領に一基だけある水車。小麦を挽くのに使っている領地の生命線。それが、増水した小川の水圧で軸が折れかけていた。
「水車が」
マルタの報告を聞いて、外に出た。雨が顔に叩きつけられる。冷たいのではなく、痛い。風で視界が塞がれ、三歩先が見えない。
水車小屋に着いた時、トマスと若い農夫が三人、びしょ濡れで軸を押さえていた。
「嬢ちゃん、来るな。危ないぞ」
「構造を見せてください。軸のどこが折れかけていますか」
泥に膝をつき、水車の下に潜り込んだ。暗い。水しぶきが目に入る。手探りで軸を確かめた。
亀裂は軸の根元。支えの木組みが腐食している。応急処置するには、この部分に添え木を当てて、釘で固定する必要がある。
「添え木になる角材を。長さは三尺、幅は」
設計図が頭の中にある。だが、この雨の中で作業するには人手が足りない。角材を押さえる人間、釘を打つ人間、水車の回転を止めておく人間。最低でもあと二人いる。
「トマスさん、人を」
言いかけた時、蹄の音がした。
雨の中を、馬が走ってくる。一頭ではない。三頭。先頭の騎手がすでに馬を降りて走っている。
カイだった。
後ろにリックと、もう一人の兵士。全員が濡れ鼠で、しかし動きに迷いがなかった。
「状況は」
「軸の根元に亀裂。添え木で応急処置します。角材を押さえてもらえますか」
「わかった」
会話はそれだけだった。
カイが角材を運び、私が位置を指示し、トマスが釘を打ち、リックが水車の回転を棒で止めた。雨水が首筋を流れ、泥が爪の間に入り込み、角材の木肌がざらついて掌が擦れた。
誰も何も言わなかった。怒鳴る必要がなかった。指示と動作だけで十分だった。
叩きつける雨の音と、釘を打つ槌の音だけが響いていた。
応急処置が終わった時、嵐はまだ続いていたが、水車は止まらずに回り続けていた。
◇◇◇
領主館に全員を招き入れた。マルタが温かい薬草茶を配る。ミアが作った冬早咲きの煎じ茶。湯気が立ち上り、部屋に甘い薬草の香りが広がった。
全員が泥だらけだった。
トマスが薬草茶を一口飲んで、目を瞬かせた。
「……美味いな、これ」
「ミアが淹れたんです。冬早咲きの蕾を乾燥させて」
ミアが湯呑みを抱えたまま小さく頭を下げた。泥がついた頬が、湯気で少しだけ赤い。
トマスが二口目を飲んだ。それから、ゆっくりとこちらを見た。
「嬢ちゃん」
「はい」
「さっき水車の下に潜った時な。わしは止めようとした」
「はい」
「でも、嬢ちゃんは構造を見てた。壊れ方を見てた。怖がってなかった」
返す言葉を探した。怖くなかったわけではない。暗くて、水が冷たくて、軸が折れたら下敷きになる。怖かった。
でも、前世で培った習性が勝った。問題が起きたら、まず現場を見る。見てから考える。考えてから動く。怖いかどうかは、後で処理する。
「総務部の訓練です」
通じるはずのない言葉を言ってしまった。トマスは首を傾げた。
「よくわからんが」
トマスが薬草茶を飲み干した。
「嬢ちゃんは、この村の人間じゃないが。この村のために泥に膝をついた。それは、覚えとく」
嬢ちゃん。三度目の「嬢ちゃん」は、もう距離の言葉ではなかった。
◇◇◇
客人たちが帰った後、カイだけが残っていた。
嵐はまだ窓の外で吠えている。馬を走らせるには危険だとマルタが引き留めた。カイは「ああ」とだけ言って、執務室の椅子に座った。
泥だらけの軍服――いや、今日も作業着だった。袖口が破れている。水車の修繕で引っかけたのだろう。
「カイ様。服を」
「問題ない」
「袖が破れています」
「問題ない」
二回言った。二回とも嘘だ。だが追及しても無駄だとわかってきた。この人は「問題ない」で全てを済ませる。
マルタが用意した替えの服を置いて、私は部屋を出た。
廊下で立ち止まる。窓の外、嵐の向こうに、カイの領地がある方角。今夜は見えない。
なぜ来たのだろう。嵐の中を。隣領の水車のために。
合理的な理由は、ある。ソレイユ領の水車が止まれば小麦が挽けず、食糧事情が悪化し、隣領にも影響が出る。それは確かだ。
でも、嵐の中を馬で駆けてくる合理性が、どこにあるのだろう。
翌朝、嵐が去った後、カイは何も言わずに帰った。
破れた袖の作業着の代わりに、畳まれた替えの服が椅子の上に残されていた。その上に、蜂蜜の焼き菓子が二つ。
布の包みの中で、焼き菓子はまだ湿っていた。嵐の中を運んできたのだ。ずっと懐に入れて。潰れないように。
食べた。
蜂蜜の甘さが、嵐の後の朝に沁みた。それだけのことなのに、目の奥がじんと熱くなった。
生地を寝かせるように、急いではいけない時間がある。
……何の話だ。帳簿に戻ろう。




