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婚約破棄されたので、定時退勤で領地経営します  作者: 秋月 もみじ


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第5話 嬢ちゃんの正しさ


週休制度を提案した。


農閑期ではなく、今すぐ。排水路が直り、治水設計も始まり、領地が少しずつ動き出している今こそ、休む仕組みを作るべきだと思った。


「七日に一度、全員が休む日を設けます」


領主館の前に集まった村人たちの顔が、固まった。


トマスの腕が組まれる。若い農夫たちが顔を見合わせる。マルタが唇を引き結んでいる。


「嬢ちゃん」


トマスが口を開いた。嬢ちゃん。この呼び方は、まだ信頼ではなく、距離だ。


「気持ちはありがたいがな。七日に一度休むってのは、この辺りじゃ無理だ」


「なぜですか」


「麦は待ってくれん。この時期に種を蒔かにゃ、来年の春に芽が出ん。一日休みゃ、一日分だけ遅れる。遅れた分は、誰も取り戻してくれん」


トマスの声は穏やかだった。怒っているのではない。ただ、事実を述べている。


「でも、疲労の蓄積は判断力を低下させます。怪我のリスクも上がります。長い目で見れば」


「長い目で見るゆとりが、わしらにはないんだ」


言葉が、喉に詰まった。


正しいことを言っている。私は正しいことを言っている。前世でも、健康経営の提案書を書いた。残業時間の削減が生産性を上げるデータを添えて。上司は提案書を「参考にする」と言って、引き出しにしまった。


同じだ。


正しいけれど、届かない。


「嬢ちゃんの言うことはわかるよ。わかるが、ここは王都じゃない。畑の草は待ってくれんし、家畜は毎日世話がいる。七日に一度、全部を止めるってのは、こっちにとっちゃ命に関わる話なんだ」


トマスが背を向けた。村人たちが散っていく。


一人残された。


◇◇◇


その午後、私は領地を歩いた。


畑を見た。農夫たちが黙々と種を蒔いている。腰を曲げ、土に手を突っ込み、一粒ずつ。機械もない。灌漑設備もない。種蒔き機すらない。すべてが手作業だった。


この世界には、前世の「効率」を支える前提がない。


電気がない。機械がない。流通網がない。冷蔵もない。種を蒔く適期を逃したら、次は一年後だ。


知っていたはずだ。頭では。……いえ、知っていたというのは嘘だ。数字しか見ていなかった。


でも、帳簿の数字ばかり見ていた。数字の向こうにある、土を掘る手の感触を、見ていなかった。


畑の端で、子供が二人、しゃがんで何かを見ていた。虫だろうか。五歳くらいの男の子と、三歳くらいの女の子。


「あ、領主さまだ」


男の子が顔を上げた。女の子が、男の子の後ろに隠れた。


「領主さまって怖い?」


男の子が女の子に聞いている。小さな声で。聞こえないと思っているのだろう。


「こわい」


女の子が答えた。


足が止まった。


怖い。


私が。


この子には、新しい制度を押しつけてくる、よそ者の大人に見えている。前の代官と同じだ。いや、もっと悪い。前の代官は少なくとも何もしなかった。私は「正しいこと」を押しつけている。


前世の上司が脳裏に浮かんだ。「効率化」の名のもとに、現場を知らずに新しいシステムを導入した人。残業が減った代わりに、持ち帰り仕事が増えた。改善ではなく、負担の移動だった。


あの上司と、同じことをしている。


私が。


視界が滲んだ。泣いているのだと、一拍遅れて気づいた。


涙が出るのは久しぶりだった。前世の最後の日も泣かなかった。過労で倒れる直前まで、泣く暇がなかった。


こちらに来てからも、断罪の日も、父に勘当された日も、泣かなかった。


なのに、五歳の子供に「こわい」と言われただけで。


頬を伝う涙を拭った。袖で。前世なら、ハンカチがあった。異世界にはティッシュもない。こういう時に不便だ。


不便だと思うことで、少しだけ笑えた。


◇◇◇


「間違ってない」


声に振り向くと、カイが立っていた。


なぜここにいるのか。視察の予定は今日ではないはずだ。


「なぜ」


「リックから聞いた。週休の提案が通らなかったと」


情報が速い。辺境伯のネットワークは軍事並みの伝達速度らしい。


「間違ってないって言ったよな」


カイの灰色の目が、私を見ている。涙の跡を見ているかもしれない。見ていないふりをしてくれているのかもしれない。どちらでもいい。


「休みを作るという発想は間違ってない。この土地に合わせるだけだ」


「合わせる?」


「七日に一度ではなく、農閑期にまとめて休む。繁忙期は全員で働き、閑散期に取り戻す。この辺りの農家は、昔からそうしてきた」


知らなかった。帳簿には載っていない情報。


「それから、休む日に何もすることがなければ、誰も休まない。休日にやることがいる」


「やること」


「市を立てる。月に一度、農閑期の休日に。近隣の村から人を呼ぶ。物を売る。買う。話す。それが休みだ」


カイの声は平坦だった。感情がこもっていないように聞こえる。でも、この人が「こうすればいい」を二文以上続けて言うのは、初めてだ。


三文だ。三文も言った。


「……ありがとうございます」


「礼を言われることは何もしていない」


カイが踵を返す。


「カイ様」


足が止まった。振り返らない。


「泣いてましたか、私」


沈黙。


「……知らん。俺が来た時にはもう止まっていた」


嘘だ。目の周りが赤いのは、自分でわかる。でも、この嘘は。


ありがたいと思った。「助かります」ではなく、ありがたい。


カイの背中が遠ざかる。作業着の背中に、夕日が橙色の線を引いていた。


領主館に戻った。帳簿を開く。


七日に一度の週休ではなく、農事暦に合わせた閑散期休暇。月に一度の市。


帳簿の余白に書いた。


「やり方を変える。でも、諦めない」


前世のメモ帳にも、同じことを書いたことがある。あの時は、結局諦めたけれど。


今度は、諦めない。


この土地には、前世のコピー機も、メールも、エクセルもない。でも、前世にはなかったものがある。


土を掘れる辺境伯と、薬草を知っている少女と、腕を組んで「無理だ」と正面から言ってくれる老人。


定時の鐘が鳴った。


今日も、定時に帰る。泣いた日でも。

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