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婚約破棄されたので、定時退勤で領地経営します  作者: 秋月 もみじ


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第4話 図面と薬草


カイが技術者を貸してくれたおかげで、排水路の次は治水に取りかかれた。


ソレイユ領の東側を流れる小川が、雨季になると氾濫する。過去の帳簿に「水害による損失」が毎年計上されていた。同じ災害に同じ金額を払い続けている。前世なら「再発防止策を出せ」と上司に詰められる案件だ。


私は小川の流域を歩き、傾斜と水量を測り、簡易的な堤防と遊水地の設計図を描いた。前世の知識ではない。こちらに来てから、カイの領地の治水資料を借りて勉強した。


問題は、一人では現地調査が終わらないことだった。


「ここの土質、粘土層がどこまで続くか確認したいんですが」


「掘ってみればわかる」


カイが言った。


今日もいる。視察という名目で、もう何度目だろう。今回は部下を連れず、一人で来ている。軍服ではなく、作業着に近い格好だった。


「お忙しいのでは」


「今日の予定は終わった」


嘘だと思う。辺境伯の予定が昼前に終わるはずがない。だが追及する理由もなかった。人手は足りていないのだから。


カイは黙々と土を掘った。シャベルが湿った地面に食い込む振動が、隣にいる私の足裏にまで伝わる。掘り返された土の断面を見て、「二尺で粘土層に当たる。この深さなら基礎は持つ」と簡潔に言った。


この人は、自分の手で土を掘れる貴族だ。


前世の上司にはいなかったタイプだ。いや、一人だけいた。部長代理の山田さん。自分でコピーを取り、自分で段ボールを運び、「偉い人が手を動かさないと、現場は動かないんだよ」と笑っていた人。


……つまり。私はこの辺境伯に、山田部長代理の面影を重ねているのかもしれない。


いけない。仕事に集中する。


設計図を広げた。川の流れ、堤防の位置、遊水地の範囲。羊皮紙に引いた線が、秋の陽光で白く浮かび上がっている。


カイが隣にしゃがみ込んで図面を覗いた。泥のついた指で、遊水地の位置を指す。


「ここは低地だが、下流の排水路と繋がっていない。繋げれば遊水後の排水がスムーズになる」


「あ」


見落としていた。遊水地の設計に集中するあまり、排水経路との接続を考慮していなかった。


「排水路の設計図と重ねてみろ」


カイが自領から持ってきた排水路の図面を出した。二枚の図面を並べると、繋がるべきラインが見えた。点と点が線になる感覚。


「……なるほど。ここを三十度傾けて、排水路の第二分岐と合流させれば」


「そうなる」


カイの灰色の目が、図面を見ている。いや、図面だけを見ている。私のことは見ていない。


なのに、なぜだろう。この人と図面を見ている時間は、帳簿を一人で睨んでいる時間よりずっと短く感じる。


「いい設計だ」


カイが立ち上がった。泥を払いもせず、空を見上げる。


褒められた。図面を褒められた。


それだけのことなのに、胸の奥がざわついた。嬉しさ――いや、違う。嬉しいのとは少し違う。自分の仕事を、正しく評価できる人間に見てもらえた安堵。それに近い。


前世では、なかったことだ。


◇◇◇


午後。ミアと薬草の調査をした。


ソレイユ領の裏山に自生する植物を、ミアが一つずつ教えてくれる。冬早咲きの他にも、傷薬になる青苔、虫除けになる白茅、鎮痛作用のある黒蓬。


「この黒蓬、煎じ方で効果が変わるんです。弱火で長く煎じると鎮痛、強火で短く煎じると解熱」


ミアの目が輝いている。薬草の話をする時だけ、この子は饒舌になる。


「お母さんに教わったの?」


「はい。お母さんは村の薬師でした。私が八つの時に亡くなって……それからは、一人で」


ミアが草を摘む手が止まった。すぐに動き出す。止まったのは一瞬だけだった。


「ミア。この薬草を加工して売れないか、考えてみたいんだけど」


「売る?」


「薬草をそのまま売るのではなく、加工品にする。煎じ薬を瓶詰めにする、乾燥させて粉末にする、茶葉のように小分けにする。加工すれば付加価値がつく」


ミアが首を傾げる。付加価値。通じなかった。


「つまり、お母さんが教えてくれた知識には、お金に換えられる値打ちがあるということ」


ミアの瞳が揺れた。唇を引き結んで、何かを飲み込むように喉が動いた。


「……私の知ってることが、役に立ちますか」


「立ちます。この領地を変えるくらいには」


大きなことを言ってしまった。だが嘘ではない。帳簿の赤字を黒字にする鍵が、この薬草にある。


ミアが小さく頷いた。冬早咲きの蕾を握る手に、少しだけ力が入っていた。


◇◇◇


夕方。定時の鐘が鳴り、私は窓を閉めた。


今日の収穫を帳簿にまとめる。治水設計の修正案。薬草の種類と加工方法の候補リスト。ミアの雇用にかかる月次コスト。


書きながら、カイの言葉が頭をよぎった。


いい設計だ。


前世で一度も言われなかった言葉だ。提出した書類に赤ペンが入り、差し戻され、修正し、また差し戻される。「良い」と言われた記憶がない。


……というより、言われていたのかもしれない。聞こえていなかっただけで。忙しすぎて。


羽ペンを止めた。窓の外に、冬早咲きの白い蕾が風に揺れている。


その夜、王都から届いた手紙で知った。


聖女マリスの治癒魔法が、初めて失敗したらしい。貴族の子息の骨折の治療で、完治に至らなかったと。


聖女の力の衰え。王都ではそう噂されているという。


私にはひとつ、思い当たることがあった。マリスの治癒魔法が高い成功率を誇っていた頃、私は彼女に補助薬を調合して渡していた。鎮痛剤と抗炎症薬を混ぜたもので、治癒魔法の前に患者に飲ませると、魔法の効率が上がるのだ。


セレナがいなくなれば、補助薬もなくなる。


だが、それは私の問題ではない。引き継ぎ書に調合法は書いた。読んだかどうかは、向こうの責任だ。


帳簿を閉じた。


蜜蝋の灯りを消す。暗くなった部屋に、かすかに松脂の匂いがした。カイの外套。洗って返そうと思っているのに、なぜかまだ椅子の背にかけてある。


明日は返そう。


たぶん、明日。

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