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婚約破棄されたので、定時退勤で領地経営します  作者: 秋月 もみじ


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第3話 定時退勤宣言


排水路の修繕に、カイが約束した技術者が来た。


三人の壮年の男たちで、全員が日に焼けた手をしている。辺境伯領で治水事業に携わっていた職人だという。リーダーのガブは、口ひげの端を撫でながら排水路を見下ろした。


「こりゃあひでぇな。三年は掃除してねぇだろう」


「五年です」


私の返答に、ガブが口笛を吹いた。


修繕は私の設計図をもとに進められた。勾配を計算し直し、石を組み替え、堆積した泥を掻き出す。三日でぬかるみが消えた。通りの水はけがよくなり、雨の日も靴が沈まなくなった。


小さな変化だ。だが、村人たちの足取りが少しだけ軽くなったのがわかった。


問題は、その次だった。


「本日より、この領地の執務時間を定めます」


領主館の前に集まった村人たちに、私は告げた。


「朝は鐘三つ鳴ってから。夕は鐘七つで終わり。それ以降は休息の時間です。いかなる業務も、鐘七つ以降は翌日に持ち越してください」


沈黙。


村長のトマスが腕を組んでいる。六十を過ぎた厳つい顔に、深い皺が刻まれている。口元が動いたが、言葉にはならなかった。


「あの……嬢ちゃん」


若い農夫が手を挙げた。


「鐘七つっていったら、夏場はまだ明るいですぜ? 畑の草引きが」


「草引きは翌朝にしてください。疲れた状態で畑に出ると、怪我をします。怪我をすると、翌日以降の生産性が落ちます」


生産性。


この言葉が通じないことは、わかっていた。だが他に言い方を知らない。


「定時です。帰りましょう」


誰も動かなかった。


◇◇◇


それからの数日、「定時」は領地の珍妙な風習として扱われた。


余談だが、領地の巡回を始めた私は、初日から道に迷った。自分で描いた地図を持っているのに、だ。前世でも方向音痴だったが、異世界でも治っていなかった。カイの部下が見つけて連れ帰ってくれたのは、出発から三時間後のことだった。


農夫たちは日が暮れるまで畑にいた。マルタは鐘七つを過ぎても台所で働いていた。私だけが律儀に鐘七つで羽ペンを置き、窓の外の暮れなずむ空を見ていた。


効率化が受け入れられないのは前世でも経験済みだ。新しいシステムの導入は、最初は必ず抵抗される。ここで引いてはいけない。


……なんというか、この強情さは、たぶん長所ではない。


そんなある朝。領主館の裏口で、痩せた少女が座り込んでいた。


十五歳くらいだろうか。薄汚れたワンピースに、素足。手に、小さな花束――いや、花ではない。草だ。


「これ、冬早咲きです。領主様にお渡しできませんか」


「冬早咲き?」


見覚えのない白い花。いや、花ではなく、蕾のままの植物だ。マルタが「ソレイユ領に自生する薬草」だと教えてくれた。


「煎じると咳止めになるんです。お母さんが、生きてた頃に教えてくれて」


少女の名前はミア。孤児で、村の端に一人で住んでいるらしい。


「ミアさん。薬草に詳しいんですか?」


「ミアでいいです。……はい。他にも、傷薬になる草とか、虫除けになる草とか」


その瞬間、私の頭の中で数字が動いた。


薬草の産地。加工技術の不在。流通経路の未開拓。つまり、この領地には売れる商品の原材料があるのに、商品化されていない。


これは――前世の言葉で言えば、「埋もれたアセット」だ。


「ミアさん。あなたを雇いたいのですが」


「え?」


「領主館の下働きとして。給金は銅貨三枚と三食付き。ただし条件があります」


ミアの目が丸くなった。


「定時に帰ること。鐘七つ以降は働いてはいけません」


初めて、「定時」を真剣に聞いてくれる人間が現れた。


ミアは少し考えてから、小さく頷いた。冬早咲きの蕾を、両手で大事そうに抱えたまま。


◇◇◇


その週もカイが来た。


リックという名前の副官を伴っている。赤毛の青年で、カイとは対照的によく喋る。


「閣下、また隣領ですか。先週も来ましたよね」


「定期視察だ」


「定期って、以前は月に一度でしたよね」


カイはリックを無視して馬を降りた。手に、布に包んだものを持っている。


「これは?」


「焼き菓子だ。辺境の名物でな」


蜂蜜の甘い匂い。焼き立てではないが、まだほんのり温かい。手のひらに収まる小さな円形の菓子。


「ありがとうございます。辺境の名物なんですか?」


「ああ」


カイはそれだけ言って、排水路の修繕状況を確認しに行った。リックが残されて、なぜか私を見ている。


「あの、リックさん?」


「……いえ、何でもないです。焼き菓子、美味しいですよ。閣下が持ってくる時は、いつも美味しいので」


意味がよくわからなかった。


焼き菓子を齧る。蜂蜜とバターの、素朴で温かい味がした。前世で食べたことのない味だ。それなのに、なぜか懐かしい。


帳簿に戻る。排水路の修繕費を計上しながら、ふと気づいた。


今日の帳簿は、いつもより少しだけ、丁寧に書けている気がする。


定時の鐘が鳴った。


羽ペンを置く。今日もまた、私だけが定時に帰る。


だが。


窓から見える畑の端で、ミアが腰を伸ばしていた。鐘の音を聞いて、作業を止めた。両手を天に向けて伸びをする。小さな影が、夕焼けの中で揺れている。


一人。たった一人だけ、定時に帰る仲間ができた。


それが妙に嬉しくて、報告書を書く必要もないのに、今日の出来事を帳簿の端にメモした。


「冬早咲き。薬草。商品化の可能性あり。担当:ミア」


まるで、前世の業務日報みたいだ。


笑ってしまった。笑うと、松脂と蜂蜜の匂いが混ざった。カイの外套を、まだ返していない。

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